千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

ブログの紹介

こんにちは(`・ω・´)

 

このブログでは、哲学や宗教、政治経済、時事問題など、縦横無尽に書き連ねていきます。

 

興味関心が広範なため、トピックがころころ変わると思いますが、私は宗教法人創価学会の会員でもあり、学会や公明党、そして学会が崇敬する日蓮に関する記事も頻繁に書いていきたいと思います。

 

学会員といっても、私は学会や公明党の良い面も悪い面も、思う事を率直に語っていくつもりです。

 

様々な方にご覧いただくことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

 

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浄土教:阿弥陀仏信仰と仏国土の世界観

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日蓮系宗派では何かと目の敵にされることの多い浄土教とその念仏。(便宜上、たびたび「浄土教」と表記することを御容赦下さい。)

しかし、今日の日本では、浄土真宗が最も信者の多い仏教宗派といわれています。

何故浄土教は多くの人々に受け容れられたのか、またどのような考え方に基づいて悟りへの道を説いたのか、こうした点等を検証せずに闇雲に批判するのはいかがなものでしょうか。

今回はさわりだけですが、浄土教についてまとめてみました。

 

日本における浄土系の代表的な宗派は、浄土宗(法然)、浄土真宗親鸞)、時宗(一遍)ですね。

教義に浄土信仰を取り入れた融通念仏宗良忍)もあります。

 

主要経典は『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』(*)の三点が「浄土三部経」として知られています。

(『無量寿経』と『阿弥陀経』は『法華経』とほぼ同時期に成立したといわれています。『観無量寿経』に関しては、インドではなく中国で創作されたものではないかという疑惑があります。)

 

経典信仰を主張した『般若経』『法華経』に対し、浄土教系では阿弥陀仏信仰が中心の教えです。

日本には飛鳥時代の頃に伝わり、比叡山延暦寺の開山以降に教えが定着したとされています。

法然と弟子の親鸞により、それぞれ浄土宗と浄土真宗が始まったのを皮切りに、主に庶民の間で急速に広まっていきました。

 

そして、浄土教系が流行する背景にはやはり「末法思想」があります。釈迦の死後、正当な教えが衰退していき、今世では悟りを得られない時代(末法)が来ることを予言したとされる歴史観ですね。

日本においては、最澄の著作とされる『末法灯明記』の中で「永承七年(西暦1052年)から末法の時代に突入する」とあり、これによって一種の終末論的な考えやそれに伴う不安が社会を覆っていきました。

そのような中で提示された一つの解答が浄土教の教えだったわけですね。修行を必要とせず、ひたすら南無阿弥陀仏と称えることで極楽浄土に往生できる、と。

 

当時の人々も貧困や飢餓にあえぐ中で、今の苦しい世界を離れて別の世界に行きたいと思っていた。

念仏の教えはそんな時代の世相に沿った形で広まっていきました。

また修行を積んだり、寺に寄進したりしなくても救われる道を示したことによって、広く民衆に浸透したと言われています。

この点、経典信仰を重んずる『般若経』や『法華経』は文字が読めることが前提となるため、やはり民衆の中で文字が読めない人々には敷居が高いものであったと言えるでしょう。

もちろん、南無阿弥陀仏の念仏と同じく、南無妙法蓮華経の題目のようなシンプルな方法にまで落とし込めば問題はありませんね。

 

また念仏を称えた信徒が死後に行くとされる「極楽浄土」ですが、これは来世に旅立つまでの「あの世」といった時間的な流れにおける場所ではないようです。

般若経』や『法華経』では「時間軸」で悟りに至る道を考えますが、浄土教の場合は「空間軸」で考えます。

ここでは一種のパラレルワールドを想定していて、いくつもある世界のうち仏が住まう世界を「仏国土」と称しました。

つまり何度も生まれ変わって仏に出会えるのを待つよりも、死後すぐに仏のいる世界に行けば悟りの道を歩むことができるという考え方です。

 

また、ご存知の方にとっては常識かもしれませんが、浄土教では釈迦ではなく阿弥陀仏が主役であり信仰の対象です。

もっとも、阿弥陀仏大乗仏教の時に創作された仏とされていますし、そのルーツも西方の異文化から流れてきたという説や、ゾロアスター教の影響ではないかとする説もあります。

 

まだまだ紹介しきれていない浄土教の特色は多々ありますが、敷居を低くして全ての人に開かれた教えを説いた姿勢は、大乗仏教の精神に連なるものとして正当に評価されるべきではないかと考えます。

極楽浄土への往生を願う心を「現実逃避だ」と断ずるのは簡単ですが、仏国土というパラレルワールドを想定して、死後とはいえ一刻も早く悟りへの道に導こうとしたことまで否定されるべきだとは思いません。

 

また、日本の仏教を語る上では、やはり末法思想に対する理解が不可欠であると思います。

 

参考文献

佐々木閑『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2017年)

マスローの警鐘:組織宗教のドグマ化は乗り越えらえるか

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私たちの社会の大多数の人びとは、あきらかに組織宗教を目して、霊的生活の独特の所在地、独特の源泉、独特の保護者、守護者、教師と考えている。組織宗教のとるいろんな方法、その教え方、その内容は、ひろく公式に、正義、純潔と徳、公正と善良などの生活へみちびく特別の道だと、また多くの人によっては唯一の道だとみとめられている。(A. H. マスロー『創造的人間ー宗教・価値・至高経験』佐藤三郎、佐藤全弘訳、誠信書房、1996年、5頁)

これは20世紀を代表するアメリカの心理学者エイブラハム・ハロルド・マスローの言葉です。(マズローとも表記される)

心理学では彼の「欲求五段階説」や「自己実現」等がよく知られていますね。

心理学者でありながら、彼の問題の関心は科学と宗教の分離、知識と価値の分離といった文明論的課題にまで広がっていました。

彼の思索は、創価学会の宗教としての在り方を検証していく上で非常に多くの示唆に富んでいると感じています。

 

創価教育学体系』の記事で、牧口氏の実証主義や科学的手法を重んじる姿勢について検証しました。それは、彼が設立した創価教育学会の会合に「実験証明座談会」という名がつけられていたように、教育のみならず宗教にも及んでいました。

今日の創価学会においても、病苦や経済苦などを信仰で乗り越えた体験を「実証」、すなわち信仰の正しさの証明としています。

しかし、これは科学的態度と称するにはあまりに現象面に固執しており、信仰と体験にどのような因果関係があるかという検証や、その信仰が依拠する聖典等の文献の信頼性や論理性の検証が蔑ろにされている感は否めません。

 

そうした学問的な検証が不十分なまま、ある結果を見て何かが証明されたと判定する発想は「功利主義」に近いものがあります。

功利主義の国・アメリカが主張する「戦争に勝った方が正義」というような論理とよく似ています。

戦争には勝ったかもしれないが、その終結を企図する大義のもと、二度の原子爆弾投下と東京大空襲で非戦闘員である民間人を大量殺戮した所業は正当化されるか。

結果のみに着目すると、こうした過程における検証が疎かになりがちです。

マスローもアメリカ社会の病理を深く憂慮した一人でした。

 

現象という結果のみに固執するのは、科学的というには不十分であるどころか、誠実さに欠けます。

だからこそ学問的な検証が、歴史解釈においても宗教の健全さの維持においても重要な役割を果たすのであり、無視してよいものではありません。

 

知識・懐疑・確証・否認といった学問的な検証、それに伴う「純化と改善の可能性」から切り離されたとき、宗教は必ずドグマに陥ることをマスローは指摘します。

そのような宗教は、その基となっている啓示は完全無欠で終局的であり、永遠なものだと主張しがちであった。そのような宗教は、真理を、それも全真理をもっていて、もはやそのうえ学ぶ必要はなく、したがって変化に抵抗したり、ただただ保守的であろうとしたり、反知性的・反科学的であったり、敬虔で忠順ならば懐疑的な知性は排除したりする。(中略)(反知性的な組織宗教における)信仰は、対象が何であろうと、それへの、疑問をもいだかない従順と、最後まで頑として退かぬ忠誠となりがちである。それは人間よりはむしろ羊をつくりがちである。それは恣意的で権威主義的なものとなる傾向がある。(同書、17-18頁)

「永遠の法」「世界一の生命哲学」「不信は悪」といった創価学会の指導性はまさにこの指摘に当てはまります。

教条主義権威主義の危険に警鐘を鳴らしたマスローが「人間主義的心理学」を探求したことも象徴的です。

この引用元となる著書『創造的人間』は、池田名誉会長も教育提言で触れていましたが、マスローが提起した組織宗教の課題を、皮肉にも学会はそのまま体現してしまってはいないでしょうか。

創価学会の教学・3つの問題

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こんにちは。

創価教育学体系』の記事を書き始めましたが、アクセス数がやはり減りますね笑 キャッチーではないし。ご興味ある方々に読んでいただいたりご指摘いただければそれで満足です。

 

さて、学会の、特に教学における指導は色々と問題があります。

 

引用が短すぎる=ワンフレーズ教学

 

活動の打ち出しとか指導に使えそうな、それこそ「キャッチー」な印象を残すためか、引用があまりに短いです。文脈がわかりずらい。

 

有名な「仏法は勝負」も良くて↓くらいの長さです。

夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。(『四条金吾殿御返事(世雄御書)』、1165頁)

文脈によって意味が変わることって普通にありますよね?

例えば有名な教育者W. クラーク博士の言葉「青年よ、大志を抱け」も、その後に「この老人の如く」という一言が添えられているかで意義も印象も随分違いますよね。

言語だって縁起なので関係性で意味が変わっていきます。

部分だけ切り取ってそれが全てみたいに見せるのって、スキャンダルや印象操作を行うマスコミの手法として批判されることがありますが、うちの組織がそれでいいのでしょうか。

上の引用はもっと短ければ「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」だけです。

そして合言葉は「仏法は勝負」と完全に都合よく使っています。

「官から民へ」みたいにもはやワンフレーズ・ポリティクスならぬワンフレーズ・ブディズムです。

本来全体を通して見ると、「仏法と王法の相違」、「日本における崇仏・排仏派の争い」「仏法は道理で勝つ」という大事なことが書かれているんですけどね。

 

通解がおかしい

 

古文の知識がない会員がいることをいいことに、意図的な現代語訳があります。

例えば先の御書であれば、以下のように訳されています。

そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としている。

これなら「仏法で一番大事なことは勝負なんだ!」と捉えることもできますし、「自分に勝つことだ!結果を出すことだ!それが仏法の正しさの証明だ!だから仕事で勝つ!折伏で勝つ!選挙で勝つ!勝って勝って勝ちまくれ!」という強引な解釈が罷り通ってしまいます。

しかし、創価学会が発行した『日蓮大聖人御書講義』(全38巻+別巻で合ってますかね?)では次のような解説がなされています。

 しかも、細かいことのようだが、仏法は勝負を〝さき〟とし、王法は賞罰を〝本〟とするという言葉の使い方にも注意しなければならない。〝さき〟とは、前後の〝前〟ではない。〝本〟に対するのであり、草木の梢とか葉先にあたる。根っ子が〝本〟である。したがって、勝負を先とすということは、勝負を何よりも優先すべきだということでなく、結果として勝負としてあらわれるということである。
 仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることである。勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことが微塵もあってはならない。この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を結果することが証明されるであろう。
(御書講義録刊行会編『日蓮大聖人御書講義 第24巻 四条金吾御書 聖人御難事他十四篇』1974年、31-32頁)

特に赤字の箇所を読めば、現在でいう「仏法は勝負」と正反対であることがわかります。

おまけに青字は耳が痛いですなー笑

とはいえ先の『講義』でも、通解は「さき」を「第一」と訳しているので、矛盾してると思うんですが。

 

そもそも日蓮が書いたのか怪しい

 

日蓮の遺文には「正筆」(本当にその人自身が書いたもの、「真筆」「真蹟」とも言う)と「時代写」(写本のこと)がありますが、普通はその有無で真書か偽書か判断します。(もしくは真蹟が存在したということが確実な事)

しかし、何故か創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』(1952年発行)には正筆も写本も存在しない文書が収録されています。

しかも正筆・時代写の所在を明記しているのは私の知る限りではこの分厚い御書全集の目次ぐらいで、聖教新聞大白蓮華などの機関紙に紹介される際は明記されていません。

真偽が未決の文書も全て『御書』として取り扱うのはあまりに不誠実です。

この点、創価学会側の研究者の小林正博氏は、東洋哲学研究所での論文にて、

これまでの「日蓮文書」の収集や、各種「御書」の編纂は、文書の真偽判定をはじめ信頼性の面で大きな問題がありました。改めて文献学的に慎重に検討する必要があります。(http://www.totetu.org/literature/1/589/1.html

と認めています。

 

つくづく思うんですが、学会側の研究者とか教学部の存在意義って何なんでしょうね?

 

追記:『日蓮大聖人御書講義』ですが取り寄せようと思ったらこのような状況でした。

SOKAオンラインストア

https://www.sokaonlinestore.jp/products/list.php?transid=a4cddf9b499b5b4600940f4bacf446fd03dffc60&category_id=&name=日蓮大聖人御書講義

アマゾン

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/s//ref=mw_dp_a_s?ie=UTF8&i=books&k=御書講義録刊行会

公式ではヒットせず、アマゾンで新品や中古が買えるのみ。博文堂でまだチェックしてませんが、絶版なのでしょうか?

 

これはヤフオクも使って集めるしかないかなーと思ったら、データ化して公開しているサイト様を発見しました。

http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/

これ本当に全文なのかな?すげぇ笑

『創価教育学体系』を読む(2):教育における帰納法と実証主義

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さて、今回は「『創価教育学体系』を読む」の第2回目です。

前回は、牧口(以下敬称略)の創価教育学の定義について、ほんのさわりだけ紹介しました。
牧口の言う「価値」「人格」については後々検証していきたいと思います。

 

先ず、本書の全体の構成を見てみます。

第一編 教育学組織論

第二編 教育目的論

第三編 価値論

第四編 教育改造論

第五編 教育方法論

第六編 教材論

第七編 教育技術論

俯瞰して見るに、

①まず当時の教育の現状に対する憂慮と教育学そのものへの考察に始まり(第一編)、

②牧口の教育観(第二編)、価値論(第三編)を明らかにした上で、

③教育改革の骨子と具体案(第四〜七編)にて結ぶという構成になっています。

 

緻密な議論を展開しつつも流れは綺麗にまとまっていると言えますので、やはり順番通りに読み進めていくのが適当だと考えます。

また、先ほどに述べたように「価値」や「人格(価値)」の定義、付随する理論についても明らかにしてまいりたいと思いますが、著者の論考が展開されている該当箇所の「価値論」は第三編にあたりますので、そこまで踏み込めるのは大分先になりそうです。

 

そこで、今回は順番通りに「第一編 教育学組織論」から始め、牧口の問題意識はどこにあったのかということを見ていきたいと思います。

第一編の第一章は「教育学の価値的考察」がテーマです。

 

教育実務家はこれまでのごとき、実際生活に迂遠な学者の理論にのみ囚われず、自分自分の日々の経験から研究の歩を起こし、その経験から帰納し確立した原理によって、次の経験を更新し、もって従来の盲目的不安の生活を脱して、意識的・明目的の教育生活の域に進まなければならないのである。(『牧口常三郎全集 第一巻』東西哲学書院、1965年、17頁)

 

牧口は当時における教育者(*)の教育への姿勢を大別して経験派と理論派に分けています。(*牧口は「教育実際家」「教育実務家」という言葉を用いている)

著者が「明治維新後、六十余年を経ている今日」(15頁)と述べているように、教育といっても、日本が近代国家になってまだ百年も経っていない中での状況です。しかし、ここで牧口は、経験派に属し全国のほとんどを占めている教育家の数は「二十余万」にのぼることを示した上での「六十余年」ということで、その膨大な経験の蓄積から、新たな教育学説が未だ生まれていないことに対する不満を露わにしています。

欧米の学説を輸入するだけの理論派もさることながら、経験派にしても新学説を産むような希望が皆無であることに、著者は危機感を抱いているのですね。

長文で紹介した上記の引用にもあるように、牧口が、経験より出発し理論的推論を導き出す帰納法の立場をとっていることは明らかです。

「ねがわくは、諸君等の仕事の効果に着目したまえ。諸君等の経験を反省したまえ。」(16頁)とあるように、経験を重んじ、実証的方法を採用する牧口の姿勢が伺えます。

 

ここで、牧口の立場をある程度理解した上で、教育における帰納的方法や実証的方法に関する問題を呈示してみたいと思います。

まず教育の経験の蓄積から、新たな教育原理を見出そうとする際、観察者が経験というものをどのように認識するかという認識論が問題となります。これは教育者に限らず科学者においても同じことが言えます。

経験に基づくにしても、「(自身の知る)理論というフィルターを通じてしか、事実を観察できない」(中野剛志『保守とはなんだろうか』NHK出版新書、2013年、182頁)という問題があります。

例えば、「ガス爆発が起きたことを観察したという主張は、ガスの性質に関する理論を知らなければ不可能である」(同)ということです。

これは「観察の理論依存性」と呼ばれる考え方で、科学者のように実証主義的手法を採ったとしても、「自身の主張から完全には自由になれない」ということであり、客観性を基に理論の優劣を判定できるとする実証主義の基礎に対する反論です。

教育の「効果」を検証するにしても、それは数値化しうるもののみに限定したものなのか、数値化できないものを無意識に捨象してしまっていないかということが大きな問題となります。

特に経済の様に、生産高や失業率といった数値化しうる対象の多い分野ならまだしも、子供の「人格」という面を強調する牧口が、果たして数値化し得ない対象も多くある教育分野において、同じ原理を同じ様に適用できると考えていたのかは甚だ疑問です。

また、その「効果」なるものが、どれ程の期間の中で認められるものなのか、十年、三十年という期間での「効果」についての視野があるのかを明確にする必要があります。

こうした経験主義とその系譜を持つ実証主義に対する批判について、牧口がどう考えていたのか、あるいはそもそも認識していたのかどうかが明らかにされなければならないと考えます。

「正解」なんてない。創価学会員が精神病になる理由・再考

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ルノワール、『読書する二人の少女』)

 

こんにちは。
どうも昨日の投稿はかなり反響が大きかったようで、アクセス数も普段の4倍でした。
SNSで拡散していただきありがとうございます。
ツイッターでもご意見いただき、感謝の限りです。

 

やはりツイッターで伺った限りでは、学会活動や学会の役職と鬱病の関連性について、共感するご意見や実例のお話をいただきました。


特にその中で、学会幹部の接し方にも問題があるとのご意見も伺いました。
落ち込んでいる会員に対して、「お前が弱いからだ」「題目が足りない」といった心ない言葉を投げかける。
かえって深いショックを受けられた方もいらっしゃいます。

 

慈悲なんて高尚なものはなくても、包容力や共感力はあって然るべきでしょう。

職場の上司のほうが、よっぽどそうした包容力や共感力に優れている場合もあります。

職場の指導者の場合、自身の生活もかかっています。

役職が上であればあるほど、従業員の生活も背負っているという責任感やプレッシャーを感じざるを得ないでしょう。

学会幹部の場合、特に会員の財務で飯を食べている本部職員幹部の場合、自身の生活を案じることもなければ、会員を守ることの責任感やプレッシャーを(自発的でない限り)感じることもない。

もちろん、心から尊敬できるような人も知り合いにいますし、全ての職員幹部を否定するつもりはありません。

ただ、一般企業の従業員と創価学会本部の職員のこうした境遇の違いが、今述べたような風潮を助長しているように思えてなりません。

 

別の観点から言うと、「題目が足りない」という言葉には、この世には「正解」があるという発想が伺えます。

創価学会は徹頭徹尾「指導主義」です。

何か悩みや問題を抱えたらすぐに「組織で指導を受けなさい」と言われます。

必要に駆られなくても、周りから創価学会の幹部に人生相談をするよう言われるのです。

仕事が上手くいかなければ「指導」、病気になったら「指導」、人間関係で悩んだら「指導」、もっと酷いのは結婚や、家・車を買う時にも「指導」。

どこまで人の人生を管理したいのかと普通は思いますよね。

 

でもみーんなこれ一応「善意」です。

幹部はそうでない場合もありますが、周りの人たちは「善意」です。

指導を受けさせて、決意を促してあげることが「慈悲」だと言わんばかりなのです。

でも常識的に考えて、プライベートな話を初対面の幹部の場合おいそれと語れるでしょうか。

よっぽど信頼してない限り、活動家でない限り話したいとは思わないでしょう。

特に活動家は、学会指導の中には「正解」が溢れているという無条件の信頼を置きがちです。

 

しかし、折角悩みを相談したところで、先ほど述べたような「題目が足りない」とか、あるいは「決意が大事だ」「祈りは叶う」「負けてはいけない」といった決まり文句を並べ立てられる。

「そんなの最初からわかってるよ、わかってるのに上手くいかないから相談してるんじゃないか」と言いたくなりますよね。

実際私自身が友人の相談に乗った時も、「初めてそんなアドバイスもらえて嬉しい。皆んな同じことしか言わないから」と言われたことがあります。

聞いてみるとやはり皆んな「題目だ」と口々に言っている。

 

何故通り一遍のアドバイスになるかと言えば、相手の話を聞いてないからです。

十人が十通りの悩みを話してきたら、十通り以上のアドバイスがあって然るべきです。

 

もっと言えば気の利いたアドバイスなんかできなくったっていいんです。

大抵の人は「話を聞いてもらう」だけで解決することもあります。

一人で抱え込んでいるのが辛くて、話を聞いてもらうだけで不安が和らぎ、自分で一歩を踏み出していく人もいます。

また話を聞いてもらうことによって、自分のモヤモヤしていた悩みをより明確に詳細に言語化することができ、「こんなことで悩んでたのか」と客観的になって悩みが悩みでなくなることもあります。

あるいは、その過程で話を整理することができ、根本的な問題が見えてきてアイデアが浮かぶこともあるでしょう。

こんなことはセラピーやヒーリングに詳しい人ならご存知だと思います。

 

だから学会「指導」なんて一方的で「対話」じゃないんですよ。対話を重んじてるようで一番対話から遠いのが学会の「指導」です。(いやだからそりゃ対話のできるいい人もいますよ)

いっそ「傾聴」と言った方がいいかもしれません。

昭和の時に比べたら平成の世は深刻なストレス社会です。

悩みの深さが違います。

だから聞いてもらうだけで心が救われるという人は多いはずです。

それを一方的で一面的な「正解」を押し付けて、かえって悩ませているようでは、本当に精神を病んでしまう会員はこれからも増え続けるでしょう。

「ブラック宗教」:創価学会員が精神病になる5つの理由

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創価学会の人は鬱などの精神病が多いとよく言われます。

具体的な数字で統計をとってるわけではないので正確なことは言えませんが、確かに実感として身の回りにいたり、他の地域の会員から聞かされることも多いなぁと感じます。

何故創価学会に入って精神を病んでしまうのかというと、端的に言って学会の人は真面目すぎるんですよね。あるいは人が良すぎる人もいます。

どうしても思考回路が、「どんな苦難も信心で乗り越えられるし、努力と信仰で正義の実証を示すのだ」という風になってしまうのですね。

 

まさに「ブラック宗教」です。

じゃあ何故脱会しないのかって?

そんな簡単に縁が切れるなら苦労しないですねぇ。

あ、そうそう中々やめられないってところもブラック企業に似てますね笑

 

というわけで、個人的に鬱病を量産するなぁという学会の指導を紹介しながら、学会員が鬱病になる理由を5つあげてみます。

 

①愚痴を言ってはいけない

「愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く」

池田香峯子氏(池田名誉会長の妻)が、自身の指針とし、友人にも贈っている言葉であると紹介されています。

ため息ばかりついていると幸せが逃げてしまうよと言わんばかりに、「愚痴は福運を消すよ」と学会員同士で言い合ったりします。

でもねー、人間なんだから愚痴の一つや二つ言ったっていいではないですか。

愚痴はダメだ愚痴はダメだと言い聞かして、福運は消えないとしても、ストレスが溜まっていくのは良いことでしょうか?

 

②仕事は信仰活動として頑張らなければならない

「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(壇越某御返事、1295頁)

学会では職場・仕事についての指導としてこの御書の引用が頻繁に用いられます。

学会の草創のころから「信心は一人前、仕事は三人前」とも言われてきました。

どんなに仕事が辛くても、職場で成果を上げ、実証=信仰のすごさを示さなければならないのだと教えられます。

「今いる場所で頑張らなければいけない」

こういう考えが強すぎると休職、辞職、転職を悪いことであると捉えてしまいがちになります。

信心をどれだけ頑張っていても、どうしても今の仕事の大変さについていけない人だっているわけですよね。

就職先が完全なブラック企業でも、そこで我慢して働くことが何故仏道修行になるのでしょうか?

修行じゃなくてただの苦行じゃありません?

プロテスタントもびっくりですね。

 

③諦めたり逃げたりしてはいけない

「勝つことよりも負けないこと」が大事だという指導もあります。

「冬は必ず春となる」(妙一尼御前御消息、1253頁)と日蓮大聖人は仰せである。全てには意味がある。だから今がどんなに大変でも「不屈の楽観主義」で乗り換えるのだ!という、創価学会流のポジティブ・シンキングです。

だから途中で諦めたり、逃げようとすることは「退転」(=信仰の堕落)であり、不幸の軌道を歩むことになると教えられます。

 

④組織での人間関係で悩んでも仲良く団結しなければならない

学会が組織の重要性を強調する上で「異体同心の団結」ということが言われます。仏法は桜梅桃李で人間の多様性を尊重している。組織の人間関係で悩んだとしても、相手の個性を認めながら仲良くしていかなければならないのだ、と。

これもねー、どんなに頑張ったって我慢したって、相性が悪すぎる人は必ずいますよ。

それを「あの人も人間革命の途上。あなたも人間革命のチャンスなのよ!」と言い聞かせたりするんですね。

働きすぎ以外にもこういう学会員同士の人間関係が原因で精神を病む方もいます。

 

⑤勝たなければならない

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」(四条金吾殿御返事、1165頁)

この御書ほど濫用されてきた言葉はないかもしれません。

もっと短く「仏法は勝負」と言われることの方が多いですね。

人生においては自分に勝つこと、自分の弱さに勝つ事が大事なのだという意味でも言われますが、一方で「選挙、新聞啓蒙、折伏で勝って池田先生に勝利のご報告を!」という掛け声にもよく使われます。

特に後者は成果主義に結びつきます。

先ほど紹介したように「勝つことよりも負けないこと」と言いながら、「創価の陣列は勝ちまくれ!」ですから「やっぱ勝たなきゃダメなんじゃん!」となりますよね笑

現場の組織は地域ごとにそれぞれ具体的な数値目標を定めたノルマを達成するために奔走します。

おまけに活動家の減少に伴い、一人一人のノルマは増える一方です。

特に学会で役職についてしまうと、こういうノルマ達成の圧力・締め付けが担当者に押し寄せてきます。

他の地区の役職者がいなくて、その地区も掛け持ちして結果を出さなければならない人とかは悲惨ですね。

あー付け加えるとこの役職も「責任職」なんて言われますからね、一人の人間にどんだけプレッシャーかける団体なんでしょうね。

 

 

以上、ザックリですが会員を精神病に追い込む創価学会特有の問題をあげてみました。

幸せになるために信仰してるはずなのに、精神病を助長する指導や打ち出しを行う宗教団体ってつくづく「業が深い」ですね。

そんな業が深い組織が「宿命転換!」なんていうんですから、本当に悪い冗談です。

 

 

他にも、活動に追われすぎて家庭が崩壊するとか、お金を使わされすぎて虫の息とか、まだまだ挙げきれない問題もありそうですね。

学会員の方、元会員の方、家族や友人に学会員がいる方は、もし思い当たる節がございましたら、当ブログへのコメントや私のツイッターへの投稿などを通して、是非ご意見をお寄せください。

https://mobile.twitter.com/yurukatsu21