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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

ブログの紹介

こんにちは(`・ω・´)

 

このブログでは、哲学や宗教、政治経済、時事問題など、縦横無尽に書き連ねていきます。

 

興味関心が広範なため、トピックがころころ変わると思いますが、私は宗教法人創価学会の会員でもあり、学会や公明党、そして学会が崇敬する日蓮に関する記事も頻繁に書いていきたいと思います。

 

学会員といっても、私は学会や公明党の良い面も悪い面も、思う事を率直に語っていくつもりです。

 

様々な方にご覧いただくことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

 

ツイッター

https://mobile.twitter.com/yurukatsu21

 

御書にない用語

こんにちは(*'ω'*)

ブログアクセス数5000まで来ました。

ありがとうございます。

 

もう5月ですね。

世間はゴールデンウィーク

創価学会は友好期間という名の選挙活動期間。

本当にご苦労様でございます(´-ω-`)

 

有意義な一週間を過ごし、福運を積んで境涯革命に挑戦されるそうです。

でもこの「福運」や「境涯」という言葉は日蓮の遺文である御書全集にないんですよね。

一体誰がどこから引っ張って来た言葉なんでしょうか。

機関紙の聖教新聞大白蓮華に目を通しながら、創価学会のホームページにある御書検索で調べて、検索結果が0件だったものを紹介します。

(私が創価学会のWEBサイトで唯一評価する機能です笑  皆さんも色々試してみて下さい↓

http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/

 

「福運」

まずこの言葉は、あらゆる指導に出てくる頻出用語です。大抵は「福運を積む」というような言い方で、信心をすると、貯金のように運気がたまっていくという話ですね。いかにも現世利益的な発想です。

 

「境涯」

これも不思議な言葉です。「境涯革命」と言う時には、経済苦や病苦を克服するという点で、福運と同じく現世利益的な言葉です。「偉大なる大境涯」と言った時には、日蓮や三代会長の「生き方」を讃える時に使いますね。

そして会員同士では「境涯が高い/低い」という言い方もあります。大抵は、苦境にあっても信心強盛な様を「境涯が高い」と言ったり、不平や不満を言う相手に対して「境涯が低い」と言ったりします。ちなみにこの「境涯が低い」という言い方は、結構人を傷つけます笑

 

「常勝」

「勝負」という言葉は出て来ますが、「勝ちまくれ!」的な勝利至上主義が日蓮にあったかは疑問です。

 

「法戦」

もはや学会においては選挙を指す隠語でしかありません。

テロリストが「聖戦」という言葉を悪用してるのと同じ次元ではないでしょうか。

ちなみにイスラム教には「聖戦」(ジハード)という言葉はあり、もちろん人殺しを正当化などすることは本来の聖戦ではありませんが。

 

「魔性」

「仏性」があるから「魔性」もあるだろうと思ったらなかった笑 

 

「愚痴」(*追記: 「愚癡」の表記で存在しました。一番下の追記を参照ください。

れっきとした仏教用語ですが、御書にはない笑

「愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く」という指導は何を根拠にしているのでしょうね?不平不満ばかり言っていてはダメだよというのは分かりますが、人間なんだから愚痴の一つや二つ言いたくなりますよ。煩悩否定は人間否定、灰身滅智の教えだったのではないですか?人間的なものまで否定する人間主義とはいかに?

 

「奥底」(おうてい)

よく「奥底の信心」とか「生命の奥底」「奥底で拝する」なんて言い方がされますね。これは解説するというか意味不明な言葉です。「奥底でわかってないから退転した」という言い方もされますが、そんなこと言い出したら、どんなご都合主義的な解釈も、「奥底」で理解してない自分が悪いみたいになりませんかね?

 

「宿命転換」

ない笑  「あなたの命にある宿命なのよ。宿命は変えられるわ!」いきなりこれ言われたら一般の方々はドン引きですよね( ̄∀ ̄)

 

「己心の魔」

己心の法、妙法、仏、一念三千などはあっても「己心の魔」に類するものはありませんでした。何か疑いや批判をもつと、「己心の魔に負けてる」なんて言われますね。組織の問題を個人の問題にすり替え、自己責任のように言うのはいかがなものでしょうか。

 

師弟不二

まぁこれは調べなくても笑なんですが、この言葉ほど弊害をもたらしている言葉はないんじゃないでしょうか。志を共有するとかならまだしも、池田名誉会長の指導を教条的に振りかざす人々が増えてしまいました。「師弟相違せば」という表現は確かにありますが、目的を同じくするのか、意見まで同じくしなければいけないのか、そこは冷静な議論が必要でしょう。

 

謗法払い

まぁこれは今の組織では聞かないですね笑

でもこの言葉をもとに長い事、折伏相手の所持していた神棚や仏像を捨てさせたりしてましたよね。「邪宗の害毒」なんて言葉も御書にありませんが、まるで「ばい菌扱い」笑  「八風」にも侵されない賢人が何故恐れる必要があるんですかね?そんなに気になるなら公明党に十字路を廃止するよう言ったらどうでしょうか?

 

「半眼半口」

あーもうここまで来るとオカルトですわな笑

亡くなる際に眼と口が半開きの状態になっていることが、成仏の証なのだそうですが、別に信心してなくても似たような表現は拝見しますし、最近は化粧もしっかりしてるから良く見えるんですよね笑  逆に口がしっかり開いちゃってると一生懸命半口にしようと手で押さえる始末 笑  ←実話です。別に安らかな表情ならいいじゃないですか。

 

もちろん御書に書いてなければ仏法じゃないなどと言うつもりはありません。

「人間革命 」だって「成仏」を現代的な言葉で捉え直そうとしたわけですよね。(初出は東大総長の南原繁氏ですが、それはおいといても笑)

ただ、上記に挙げたような言葉が、一体何を根拠に、法華経日蓮の教えとどう関係していて、そしてそれらをどのように現代に展開しようとしているのか。こうした点があまりにも曖昧にされたまま、濫用されていることは問題視すべきだと考えます。

 

「福運」という言葉に現世利益的発想が垣間見えるように、言葉一つ一つが思想を体現しています。

その言葉に秘められたものを検証し、それが果たして仏法と言えるのか、また現代に有効なものと言えるのかをしっかりと見定めていく必要があるのではないでしょうか。

そうしないとこういう言葉に惑わされて思考停止に陥ってしまう危険性があります。

もし皆さんからも疑問に思う用語があれば、コメントやツイッターなどで教えて下さい。

 

*追記詳細

ツイッターより「愚痴」は『聖人御難事』にあると御指摘がありました。確認したところ漢字が「愚痴」ではなく「愚癡」でした。ネット検索で調べる場合は注意が必要ですね。

以後、表記の違いに注意を心がけます。

 

また、聖人御難事においては熱原の信徒を励ます意味での文脈ですね。やはりこれも現在の学会での使われ方とは違和感がありますね。

 

ともあれ、御指摘感謝です。

もしお気付きの点等ございましたら、コメントやツイッターでお知らせいただければ幸いです。

「犀の角のようにただ独り歩め」:組織は悟りに必要なのか

ご無沙汰してます_φ( ̄ー ̄ )

 

中々毎日更新できていなくて申し訳ありません。

ツイッターは短いので気軽につぶやいてますが笑

ツイッターでは他の方々の投稿も見ていますが、最近気になっているのが、「師匠を求めぬく中に仏法がある」という見解を多くの創価学会員の方々が持っていることです。

 

仏法における「求道心」とは、悟りを求める姿勢を指すと一般には解されますが、何故か創価学会では、「師匠を求める心」に置き換えられています。

池田名誉会長の指導を読み、創価学会の活動をしていく上での指針とすること。

池田名誉会長が今何を求められているかを考え、それを実現するために行動すること。

以上の二点が、「師匠を求める心」の具体的な内容といえます。

 

ここからは、本来仏法とは一体何なのかという視点はありません。

仏法の究極の教えは南無妙法蓮華経の題目を唱え、他にも弘める修行であるとして答えを既に出してしまっています。

よって、仏法とは何かという内容面は決着がついているとして、いかに実践し弘めるかという方法論にしか関心がない、というのが創価学会のスタンスであると言えます。

 

会員の多くは、仏法とは何かということに対しては、完全に組織の見解に依存してしまっていて、自分でまず思索することに消極的であるだけでなく、「組織を離れて正しい信仰はない」と強く信じています。

 

師匠への依存と組織への依存。

今回は後者を中心に考えてみたいと思います。

 

果たして、自分で思索を深めることもせず、組織に依存することが本来の仏法のあり方と言えるのか、この点はしっかり検証していく必要があると考えます。

 

もちろん、歴史上サンガという教団が存在していた事実がある以上、組織を頭ごなしに否定する必要はありません。

ただし、釈迦の思想はあくまで修行者一人一人が「独立した個人」であることを前提としており、その上で「サンガ」という修行者の共同体が存在していました。

この事は最古の原始仏典・「スッタニパータ」において、「犀の角のようにただ独り歩め」という表現で言い表されています。(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、2007年、以下17-19頁、253-255頁参照)

 

この譬喩は「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境と生活を指しています。

犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ」という指針が示されているんですね。

独覚」という言葉でも知られるこの境地は、初期仏教の理想とされていました。

 

訳者の中村元氏によれば、インド人はもともと内向的な性格で、独り思索に励む事を楽しむ習慣があるといわれています。

このインド人の性格が、そのままインド思想の特徴にもなっているわけですね。

これを独善や自己満足と捉えるのは軽率です。「ひとり沈思して自己を反省し、人間主体の深奥に入り込み、直観的に絶対の主体を把捉しようと努める。

この姿勢は釈迦の自帰依・法帰依の思想のベースにもなっていると言ってよく、その自己の実存をかけた高度な精神の営みは、むしろ普遍性に至ろうという気迫を感じさせます。

 

更に興味深いのは、こうした独特の思惟方法が、古代インドの風土と密接不可分にある点です。

最古代の時点で、インドの農業生産は、その恵まれた自然環境と絶妙な自然サイクルのおかげで、労働力をさほど必要としない極めて容易な営みであったことがわかっています。

生産性を上げるために、多くの人々が共同する必要性はほとんどなかったんですね。

他者への依存性が低い生活を営んでいたインド人にとって孤独であることは自然な状態でした。

この記録は、当時のインドを訪れたギリシア人によるものですが、「ポリス的人間」という人間観をもつ彼らにとって、インド人の孤独を楽しむ様はかなり異様であったそうです。

 

むろん原始仏典においても、他者との共同生活を否定していたわけではありません。「一人孤独に修行せよ」「静かなところに住め」という教えとともに、「善き友をもて」という教えも説かれています。

一見矛盾したことを言っているようですが、ここでいう「善い友だち」とは「世俗から離れる」ことに賛同した人々を指しています。

高い目的のために協力することは称賛されているのである。ここに仏教の集い(サンガ)の成立する思想的根拠が認められる。

 

つまり、仏法における組織は、悟りを求め、同じ志を共有した友人たちと協力し合い、支え合う意味で認められていたに過ぎなかったわけです。

「組織に属していなければ悟りが得られない」という発想はありません。

またその共同体の中における個人とは、「犀の角」のごとく、自分の確信を大事にしながら思索を深める人間であることが前提になっています。

こうした点から考えても、今日の創価学会で強調される組織論は、個々人の悟りを理想とする仏法の在り方に合致したものとは言えません。個人の独立した思考が重んじられるどころか、「我見」として戒められ、むしろ思考停止が助長される組織なら、そのような組織の必要性など皆無でしょう。 

虚妄の「悪魔化」の連鎖:現代文明の思想的課題

皆さんこんにちは(*'ω'*)

 

国内組織の衰退が著しい創価学会

聖教新聞ではその現状から目を逸らさせるかのごとく、連日海外組織の記事が紙面を飾っています。

教義問題の変更も頻繁に行われている昨今。

創価学会仏」という頓狂な教説も出てくるようになりました。

ブラジルの会合でも「創価学会仏」の意義について語っていますね。恐らく他のSGIにも浸透させる気でしょうが、本当に世界でも通用する教義だと思っているんでしょうか。セクト主義と思われないように、海外では日蓮本仏論をひっこめていたにも関わらず、ここへ来てセクト性を強める教義を打ち出そうというのは、理解に苦しみます。

 

創価学会内部の改革派の会員には、「今は執行部と公明党の暴走こそが喫緊の課題だ!教義問題をやっている場合ではない!」と仰る方々もいらっしゃいます。

彼らの危機感は理解できますし、問題意識を全否定するつもりはありません。

ただ私には、常に誰かを悪者にして排斥していく発想こそ創価学会が内在的に抱えてきた問題であり、その点を見過ごしてしまうと、堂々巡りになってしまうのではないかという懸念があります。

教義問題また思想の問題を疎かにしてきたからこそ、「選挙をやると功徳が出る」「仏法は勝負」といった、現世利益的かつ成果主義的言説に惑わされるようになってしまったのではないでしょうか。

 

特に誰かを悪魔化して排斥するという発想はいただけません。

 

日蓮は幕府の権力者達や諸宗の聖職者達を失脚させれば事足れりと考えたでしょうか。

血盟団事件を引き起こした日蓮主義者達はそう考えたかもしれません。

現にこの発想はクーデターにつながりますね。

日蓮にも他者を過激に批判する面はありましたが、あくまで「道心あらん人・偏党をすて自他宗をあらそはず人をあな(蔑)づる事なかれ」(開目抄、219)と、他者を悪魔化して排斥することを諌めていました。
‪「皆自宗を堅く信受し先師の謬義(みょうぎ)をたださざるゆへに曲会私情の勝劣なり」(同頁)と、思想的な総括や捉え直しを疎かにして、宗派間の争いや宗内の内ゲバに陥っている様を嘆いていたのは日蓮です。

 

世界に目を向けてみれば、思想や宗教、民族の違いをめぐって、互いに悪魔化し合っている様子が見てとれます。

典型的なのはヨーロッパに見られる移民排斥で、移民を悪魔化して排除しようという動きがありますね。

確かにそういう面もあるのでしょうが、移民排斥やEU離脱を訴える人々の全てが、必ずしも非寛容な立場から主張しているのでしょうか。

 

国際経済の事情に詳しい経済評論家・三橋貴明氏は、ルペン氏率いる国民戦線を単なる極右として片付ける動きは問題であるとしています。

「フランスで「何」が起きているのか」

三橋貴明オフィシャルブログ『新世紀のビッグ・ブラザーへ blog』

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12268769875.html

記事にもある通り、EUの問題点として、極端な新自由主義グローバリズムに基づく政策を行なっていた点が挙げられています。

 

EU域内においては、規制緩和自由貿易、そして緊縮財政と、国民経済の秩序を不安定にさせ、格差の拡大と貧困の増加を生み出す政策が続いていました。

当然自由貿易の中身に人間の移動の自由化も含まれており、大量に移民が押し寄せ、多くの職が低賃金も厭わない外国人労働者によって担われるようになった現状があるわけです。

ルペン氏との対立候補であるマクロン氏は、グローバリズム的政策を推進する立場です。

必ずしもルペン氏が極右の悪魔で、マクロン氏が中道の紳士だと安直に決めつけることはできません。

もちろん、だからといって移民排斥を肯定するつもりは毛頭ありませんが、無制限の移民受け入れには反感を抱く国民が増えてきたことは否めないでしょう。

 

にも関わらず、生活が脅かされた人々の悲痛な叫びすらも「極右」として十把一からげにカテゴライズすることは、これもまたある種の悪魔化に他なりません。

新自由主義グローバリズム、金融グローバリズムグローバル資本主義

色々な言い方はあれど、貨幣によって翻弄される現代文明の課題から目をそらし、互いを悪魔化し合い、非難し合い、排斥している場合なのでしょうか。

世界情勢におけるこうした問題を見るとき、創価学会での情勢も、一体共産党北朝鮮を悪魔化している場合なのか、執行部や公明党を悪魔化している場合なのか、よくよく考えていくべきではないでしょうか。

釈迦の過去世をめぐる思索:成仏、誓願、そして授記

ブログを開設して早1ヶ月が経ち、ブログアクセスも4000を超えました。

創価学会公明党に関する、しかもあまりセンセーショナルでない笑、思想的な問題点の指摘を中心に書き連ねているマイナー中のマイナー笑な内容にも関わらず、恐縮です。

いつもご愛読、コメント、シェア等、ご支援いただき、心から感謝申し上げます。

創価学会公明党に内部から批判の声があがっても、信濃町本部や幹部批判、公明党批判といった体制批判に留まり、思想的な総括・反省が抜け落ちている。

これが私の問題意識ですが、同じ様に感じてる方々も少なからずいらっしゃる事を、ブログやツイッターを通して知ることができました。

今後ともご教示いただければと思います。

よろしくお願いしますm(._.)m

 

さて、最近は原始仏典、大乗仏教法華経日蓮遺文等々、それぞれの時代のテキストや資料を同時に紐解きながら検証しています。

創価学会内では知り得なかった事が多く、その情報統制の中で、いかに自分の理解が偏っていたかがよく分かります。

 

 

例えば、「成仏」という言葉。

学会教学では、亡くなることではなく、「仏になること」だと教わりました。

また、一般的な仏教のイメージでいう苦行を通してではなく、南無妙法蓮華経の唱題と題目を弘める折伏を通して、その身そのまま(即身成仏)今世で成仏できるとしています。

しかし、「即身成仏」という概念が密教から来ていることはつい最近まで知りませんでした。

日蓮が「真言亡国」として密教を批判しているため、詳しいルーツを教えないのでしょうか?

 

以前から紹介している仏教学者・佐々木閑さんの『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2017年、以下33-39頁)は大変に勉強になります。

「成仏」という言葉も、さも当たり前の様に使っていますが、上座部仏教では、修行者の目標は「ブッダ」ではなく「阿羅漢」になることでした。

同じく仏教学者の植木雅俊氏の補足を加えると、「阿羅漢」はサンスクリット語のアルハンの音写で、漢訳すると「応供(おうぐ)」(供養を受ける資格のある者)となります。

元々は「尊敬に値する人」という意味で、十号(仏の十種類の呼び名)の一つであり、仏の別称だったのですが、上座部仏教では「ブッダ」よりは断然低いレベルとされました(『人間主義者、ブッダに学ぶ インド探訪』学芸みらい社、2016年、268頁)。

逆を言えば、上座部仏教では「ブッダにはなれない」と信じられていたんですね。

 

そして、「ブッダになること」を明確に目標としたのが大乗仏教でした。

しかし、目標としたはいいものの、釈迦の生涯を記した文献を読んでも、どの様にして釈迦がブッダになったのか、その修行方法は分かりませんでした。

そこで修行者達は釈迦の「過去世(前世)」にヒントがあるのではないかと考えました。

釈迦ももともとは凡夫であり、普通の人間なのだから、輪廻を経験しているはず。

ならば、過去世に別のブッダに会っていても不思議ではない

そしてその出会いによって釈迦はブッダを目指し修行していたのではないか。

「ただの妄想じゃないか」と呆れるかもしれませんが、この様にして、輪廻の概念をもとに釈迦をブッダたらしめた要因を探っていくわけですね。

そして過去世に出会ったブッダの前で、釈迦は自身も「ブッダになること」を誓ったはずだと考えます。

これが「誓願」と呼ばれるようになるのですね。

また同時に、過去のブッダの方は「お前は将来、必ずブッダになれるだろう。頑張りなさい」と釈迦を励ましたに違いないと考えました。

これが将来ブッダになれることを保障した「授記」の概念ですね。

 

もちろん「いくらなんでも空想が過ぎるだろう」と言いたくなるのもわかりますが、大乗仏教以前に書かれた『燃燈仏授記』にも似たような表現がでてきます。釈迦の成道前に現れた燃燈仏(ディーパンカラ)が、「あなたは未来において悟りを開いてブッダになるであろう」と予言しています。

よって、「誓願・授記」という発想も、決して突拍子もない話とは言えません。

そして、釈迦が過去世において出会ったブッダは一人とは限りませんので、何度も何度も輪廻を繰り返すうちに、多くのブッダと出会い、最終的に自分がブッダになったという話にまで発展していきました。

 

余談ですが、この「誓願」という言葉も創価学会では誤用・乱用されていますね。もともとは「修行者がブッダに対し自身もブッダになることを誓うこと」だったはずが、「弟子が師匠に対し勝利を誓うこと」にされてしまっています。

祈りも「誓願の祈り」でなければ叶わないとされ、「結果」を出して「勝利のご報告」をするという、師弟論に利用されています。

創価学会勝利主義・成果主義は、こういう用語の使い方にも示されているんですね。

「思想の下男根性」: 憎悪の果てに未来はあるか?

いつもご愛読いただきありがとうございます。

 

最近はツイッターで色んな方々と意見交換させていただいていますが、創価学会には、「思想」というものが簡単に持てるという発想があるのではないかと感じています。

信仰」と言った時には、どんな人でも祈る事はできますが、「思想」と言った時には、自分でよく考え、深めていかない限り、ただの借り物のままです。

そうしないと、借り物の教えは教条的なイデオロギーになりがちで、いざ何かしらの問題が発生し、危機が起きても、その枠を超えて現実を認識し、対応していくことができないのです。

 

昨日紹介した大乗仏教勃興期の時代背景はまさにそうですね。

支援者が経済的に困窮していく中で、いつまでも出家主義にこだわっていては、サンガ自体がもたなかったに違いありません。

大乗仏教前の部派仏教時代にしても、教条的に破和合僧の教義を振りかざしていては、かえって教団の内ゲバが激化してしまうという現実がありました。

 

こうした点から考えても、危機の時代にあって、仏法思想の捉え直しこそ仏法の生命線です。私が創価学会の問題を認識しながらも、「創価」という言葉はやはり大事だと思うのは、時代に即して新たな価値を創造していこうという仏法の気概を感じるからです。

その捉え直しを図ろうと研鑽している人々を、「我見」と蔑み、「創価の名をカタるな」と否定している方々こそ、創価」の意味を自分で考えたことがあるのか、と私は問いたい。

 

北朝鮮に不安を感じる方々も逆に安倍政権に反感を抱く方々も、思想の検証をする人々に対して、「今そんなことをやっている場合か!」とおっしゃいますが、ハッキリ申し上げてこちらのセリフです。

創価学会の打ち出しに煽られて「反逆者」や共産党を仏敵として糾弾している方々。逆に反発して執行部や公明党を師敵対として非難している方々。彼らの方こそ、憎悪にかられてイデオロギーを振り回している場合なのでしょうか?

 

ロシアの作家ドストエフスキーは、イデオロギーに翻弄される人々の精神性を見抜いていました。

無神論社会主義が流行していた時代を描いた小説『悪霊』の中で、彼は登場人物にこう語らせています。

無神論を喧伝する人々は)紙でできた人間なんです。何もかも思想の下男根性のせいですよ。(中略)憎悪もあるんだな。(中略)もしロシアが何かこうふいに改革されて、まあ、あの連中の方式でもいいけれど、何かこうふいに途方もなく豊かで幸福な国になったとしたら、真っ先におそろしく不幸になるのはあの連中でしょうね。そうなったら、あの連中、憎悪の対象も、唾を吐きかける相手も、嘲弄する相手もいなくなるんだから!あの連中にあるのは、ロシアに対する動物的な、際限のない憎悪、体質にまでなってしまった憎悪ですよ……(新潮文庫、2006年、261頁)

かなり長い引用で大変恐縮ですが、「思想の下男根性」とは、思想を自分で消化する事もせず、憎悪の対象を見つけては攻撃し、溜飲を下げるために利用している精神性を指しています。

つまり思想の捉え直しに関しては極めて保守的な人々が叫ぶ「改革」は、自分たちはちゃんと戦っていたというアリバイ作りに過ぎないのです。

フランス革命に批判的だったゲーテも、改革者気取りを茶化した福沢諭吉も、真の思想家たちは皆こういう人々の正体を喝破していました。

 

『悪霊』のもう一人の登場人物もこう言います。

おまえらはまず真っ先にギロチンをかつぎ出してきて有頂天になっているが、それは頭をはねるのがいたばん簡単で、思想をもつのは何より困難だという、それだけの理由からじゃないか!オマエラハ・ナマケモノダ!オマエラノ・ハタジルシハ  ー ボロキレダ、ムリョクダ!(前掲書、409頁)

現執行部を退陣させ、公明党と手を切って、その後どうするつもりでしょうか?

憎悪と怒りにまかせて追い出しても、残ったのが新しいビジョンもなく怒った人たちだけでは、何も生み出せないでしょう。

思想的な問題自体を放置したままでは、また似たような状況を繰り返すだけです。

 

本当の危機とは、そんな「悪人」が現れたことではありません。

「執行部退陣!」「公明と手を切る!」なんてそんな単純な解決策誰だって考えつきますよ。

「悪人退治」とやらをすれば解決する問題なら、大した事はありません。

危機は英語でcrisis基準を意味するcriteriaと語源は同じです。

要するに、本当の危機とは、自分たちが信じてきた価値基準の正当性が問われている時です。

だからこそ、思想のルーツにまで遡って検証、思索し、波乱の時代にどう新たな価値基準を生み出していくのかを考えていく事が必要なのではないでしょうか。

求道心とは何か:硬直化を打ち破るダイナミズム

皆さんこんにちは(*・ω・)ノ

 

さて、アショーカ王の時代に成立したとされる部派仏教。一般的な学説では、その内部から、後に「大乗仏教」と呼ばれる仏教が発生したとされています。

釈迦の仏法に対する「解釈の多様性」を認めたのですから、更に独特の教えが成立していくことは避けられません。

 

大乗仏教が興ったのは今から約二千年前とされていますが、この時代のインドでは、マウリヤ王朝の滅亡異民族の流入による混乱がありました。

激動の時代の中で、出家者を支えていた人々の経済はおろか生活の基盤までが脅かされていきます。

支持者の養いがなければ、当然出家者も修行を続けることができなくなってしまいますよね。

出家が困難な中で、在家のまま修行をしていくにはどうしたらいいか。

この経済的要因も、在家のまま悟りを開くことができるという大乗仏教の主張に影響していたのではないか、と推測されています。(佐々木閑『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』NHK出版、2017年、28、32-33頁参照)

 

無論、「もっと多くの人々を救っていきたい」という文字通り「大乗」の志で展開していった面はあるでしょうし、他にも要因は考えられます。

しかし、大乗仏教の勃興期が、こうした激動の時代であったことは確かで、どのようにして仏法を新しい形で展開していったらいいかという挑戦があったことは間違いありません。

 

こうした歴史を見るとき、現代における創価学会の運動はどうでしょうか。

 

一昨日ツイッターでのやり取りを紹介しましたが、一部の学会員の原理主義的な言説には無責任極まるものが多く、辟易しています。

私は人間・日蓮を尊敬する立場であり、人間である以上、同意できる面もあれば、同意できない面もあります。当たり前の事です。

ところが、一部でも同意できない面があると、日蓮を否定したことになるそうです。

肯定か否定か、1か0かでしか捉えられないのは思考力の欠如の表れです。

またこれこそが原理主義というものです。

 

おまけに「師弟相違せばなに事も成べからず」という日蓮の言葉を用いて、私が日蓮を否定していると結論づける始末。

あのですね、「師弟相違」しないことと、日蓮の思想全てに同意することが同じなのですか?

では日蓮は師匠・道善房の全てを肯定していたのですか?

 

しかし、こうした指摘には答えず、末法のご本仏と認めない人間には創価を名乗る前提がないとして、論点をずらす。

まともな反論もなくただ教条的に他者を悪、自分は正義と宣言すれば決着がつくほど、「正義の言論」は安っぽいものなのですか?

そんな簡単に証明できる「正義」なら、もともと大したものではなかったことになってしまいますよ?

「師匠の正義」を宣揚すると言いながら責任ある言論を展開しないなら、「師匠の顔に泥を塗っているのは誰なのか」と言われても仕方ありません。

 

「功徳罰論」「師弟論」「日蓮本仏論」等々、原理主義に陥ると、「論」ではなく不変の「真理」としてしまうため、後は「宣揚すればいい」という発想になるのです。

しかし「宣揚」とは、他者の人生に影響を及ぼす行為です。

商売に例えるのは不適切と思うかもしれませんが、商売人だって、商売を通してお客さんの生活に影響を与える立場です。

そして、商売人は、自分が販売しているものが安全なのか、不備はないか、時期にかなったものか、需要を満たしているか、産地はどこか、しっかり確認し、責任をもって商いを営む事が求められますよね?

況や、人間の生き方の基盤に影響を及ぼす宗教であれば、教えの教義をしっかり検証していくことは当然必要です。

生老病死とどう向き合うか、釈迦より始まった仏法の本質を守りながらも、それを時代に即した形で展開しながら、拡がっていったのが仏法の歴史です。

 

またこのダイナミズムの中からしか、人々を魅了する力は生まれません。

グローバル資本主義の荒波の中で、民族主義原理主義に基づく紛争やテロリズム、国際社会の再編、加速する環境破壊という地球的規模の問題を抱えた現代。

この激動の時代に即した形で、どう仏法を展開し、発信していくのか、それを追求していくことが本来の求道心ではないでしょうか。

硬直化した教義を改めず、ただ師匠の正義を宣揚すれば世界平和が実現すると考えているようでは、仏法のダイナミズムを失ったどころか、本来の求道心を失ったとみられても仕方がありません。

今、教団としての勢いが失速しているからこそ、新しい展開を模索していくチャンスなのではないでしょうか。