千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

ブログの紹介

こんにちは(`・ω・´)

 

このブログでは、哲学や宗教、政治経済、時事問題など、縦横無尽に書き連ねていきます。

 

興味関心が広範なため、トピックがころころ変わると思いますが、私は宗教法人創価学会の会員でもあり、学会や公明党、そして学会が崇敬する日蓮に関する記事も頻繁に書いていきたいと思います。

 

学会員といっても、私は学会や公明党の良い面も悪い面も、思う事を率直に語っていくつもりです。

 

様々な方にご覧いただくことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

 

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「ブラック宗教」:創価学会員が精神病になる5つの理由

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創価学会の人は鬱などの精神病が多いとよく言われます。

具体的な数字で統計をとってるわけではないので正確なことは言えませんが、確かに実感として身の回りにいたり、他の地域の会員から聞かされることも多いなぁと感じます。

何故創価学会に入って精神を病んでしまうのかというと、端的に言って学会の人は真面目すぎるんですよね。あるいは人が良すぎる人もいます。

どうしても思考回路が、「どんな苦難も信心で乗り越えられるし、努力と信仰で正義の実証を示すのだ」という風になってしまうのですね。

 

まさに「ブラック宗教」です。

じゃあ何故脱会しないのかって?

そんな簡単に縁が切れるなら苦労しないですねぇ。

あ、そうそう中々やめられないってところもブラック企業に似てますね笑

 

というわけで、個人的に鬱病を量産するなぁという学会の指導を紹介しながら、学会員が鬱病になる理由を5つあげてみます。

 

①愚痴を言ってはいけない

「愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く」

池田香峯子氏(池田名誉会長の妻)が、自身の指針とし、友人にも贈っている言葉であると紹介されています。

ため息ばかりついていると幸せが逃げてしまうよと言わんばかりに、「愚痴は福運を消すよ」と学会員同士で言い合ったりします。

でもねー、人間なんだから愚痴の一つや二つ言ったっていいではないですか。

愚痴はダメだ愚痴はダメだと言い聞かして、福運は消えないとしても、ストレスが溜まっていくのは良いことでしょうか?

 

②仕事は信仰活動として頑張らなければならない

「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(壇越某御返事、1295頁)

学会では職場・仕事についての指導としてこの御書の引用が頻繁に用いられます。

学会の草創のころから「信心は一人前、仕事は三人前」とも言われてきました。

どんなに仕事が辛くても、職場で成果を上げ、実証=信仰のすごさを示さなければならないのだと教えられます。

「今いる場所で頑張らなければいけない」

こういう考えが強すぎると休職、辞職、転職を悪いことであると捉えてしまいがちになります。

信心をどれだけ頑張っていても、どうしても今の仕事の大変さについていけない人だっているわけですよね。

就職先が完全なブラック企業でも、そこで我慢して働くことが何故仏道修行になるのでしょうか?

修行じゃなくてただの苦行じゃありません?

プロテスタントもびっくりですね。

 

③諦めたり逃げたりしてはいけない

「勝つことよりも負けないこと」が大事だという指導もあります。

「冬は必ず春となる」(妙一尼御前御消息、1253頁)と日蓮大聖人は仰せである。全てには意味がある。だから今がどんなに大変でも「不屈の楽観主義」で乗り換えるのだ!という、創価学会流のポジティブ・シンキングです。

だから途中で諦めたり、逃げようとすることは「退転」(=信仰の堕落)であり、不幸の軌道を歩むことになると教えられます。

 

④組織での人間関係で悩んでも仲良く団結しなければならない

学会が組織の重要性を強調する上で「異体同心の団結」ということが言われます。仏法は桜梅桃李で人間の多様性を尊重している。組織の人間関係で悩んだとしても、相手の個性を認めながら仲良くしていかなければならないのだ、と。

これもねー、どんなに頑張ったって我慢したって、相性が悪すぎる人は必ずいますよ。

それを「あの人も人間革命の途上。あなたも人間革命のチャンスなのよ!」と言い聞かせたりするんですね。

働きすぎ以外にもこういう学会員同士の人間関係が原因で精神を病む方もいます。

 

⑤勝たなければならない

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」(四条金吾殿御返事、1165頁)

この御書ほど濫用されてきた言葉はないかもしれません。

もっと短く「仏法は勝負」と言われることの方が多いですね。

人生においては自分に勝つこと、自分の弱さに勝つ事が大事なのだという意味でも言われますが、一方で「選挙、新聞啓蒙、折伏で勝って池田先生に勝利のご報告を!」という掛け声にもよく使われます。

特に後者は成果主義に結びつきます。

先ほど紹介したように「勝つことよりも負けないこと」と言いながら、「創価の陣列は勝ちまくれ!」ですから「やっぱ勝たなきゃダメなんじゃん!」となりますよね笑

現場の組織は地域ごとにそれぞれ具体的な数値目標を定めたノルマを達成するために奔走します。

おまけに活動家の減少に伴い、一人一人のノルマは増える一方です。

特に学会で役職についてしまうと、こういうノルマ達成の圧力・締め付けが担当者に押し寄せてきます。

他の地区の役職者がいなくて、その地区も掛け持ちして結果を出さなければならない人とかは悲惨ですね。

あー付け加えるとこの役職も「責任職」なんて言われますからね、一人の人間にどんだけプレッシャーかける団体なんでしょうね。

 

 

以上、ザックリですが会員を精神病に追い込む創価学会特有の問題をあげてみました。

幸せになるために信仰してるはずなのに、精神病を助長する指導や打ち出しを行う宗教団体ってつくづく「業が深い」ですね。

そんな業が深い組織が「宿命転換!」なんていうんですから、本当に悪い冗談です。

 

 

他にも、活動に追われすぎて家庭が崩壊するとか、お金を使わされすぎて虫の息とか、まだまだ挙げきれない問題もありそうですね。

学会員の方、元会員の方、家族や友人に学会員がいる方は、もし思い当たる節がございましたら、当ブログへのコメントや私のツイッターへの投稿などを通して、是非ご意見をお寄せください。

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『テーリー・ガーター』:「いらっしゃい」の一言で受戒

気がついたらアクセス数一万を超えてました。


ブログを再開するまで三ヶ月以上投稿を休んでましたが、ちょくちょく見にきてくださった方々がいらっしゃったようで、お待たせしてしまい本当に申し訳ございません。

 

さて、皆さんは『テーリー・ガーター』という仏典をご存知でしょうか。

原始仏典の一つで、紀元前3世紀にスリランカに伝えられ、南アジアの仏教諸国では広く読まれているそうです。

日本では中村元氏が訳した『尼僧の告白ーテーリーガーター』(岩波文庫、1982年)が一般的に親しまれています。

「テーリー」は女性出家者(尼僧)の長老、「ガーター」(偈陀と音写、略して偈)は詩を意味します。よって「長老の尼僧たちによる詩」が直訳のタイトルとなります。

この姉妹編として『テーラ・ガーター』という仏典もあり、「テーラ」は男性出家者の長老を指すので「長老の男性出家者たちによる詩」となります。

 

実は書店に立ち寄った際に、『テーリー・ガーター』の新訳本(角川選書、2017年)を見つけました。

 

テーリー・ガーター 尼僧たちのいのちの讃歌 (角川選書)

テーリー・ガーター 尼僧たちのいのちの讃歌 (角川選書)

 

 

訳者は『法華経』『維摩経』のサンスクリット原典訳で知られる植木雅俊氏。氏の著作は何冊か既に読んでいて、大変感銘を受けています。

以下は裏表紙に書かれた紹介文です。

釈尊の教えに最も忠実といわれる「原始仏典」。そのうちの1つが、釈尊に直接教えを受けた尼僧たちの言葉でつづられた詩集「テーリー・ガーター」である。リアルな不幸や辛苦ゆえに、釈尊のもとに集った女性たちの、現代にも通じる悩みや苦しみ、そして喜びが赤裸々に記された不朽の名経典が、ここに新訳で蘇った。仏教が本来もっていた男女平等思想を明らかにする名著。

もうこれ読んだだけで「買わなきゃ」という使命感が湧いてきました。

まあ植木さんの本というだけでも読む理由にはなりますけど。

副題も「尼僧たちのいのちの讃歌」と現代的な表現です。

 

特にジェンダー論、男女平等思想という観点から仏教を見ていくのも面白い。いや、ひょっとすると最も大事な視点なのかもしれません。

どちらかというと仏教男尊女卑の教えであるという見方が根強くあります。

実際漢訳仏典では、男女差別的な表現が見られるものもあるのですが、植木氏の研究では経典が中国で漢訳される際に、中国の儒教的考えが訳文に反映されてしまったようなんですね。もちろん、インドでも後々女性出家者の地位が低下していったという指摘もありますが、仏教と十把一からげにして判断することはできないようです。

 

そんなわけで、法華経だけでなく原始仏典にまで遡って、本来の仏教の男女平等思想を探っていく必要があるなぁと個人的にも感じています。

特にゴータマ・シッダールタという人は、自身の振る舞いを通して平等を説きました。

『テーリー・ガーター』では、バッダーという女性が自身の出家のシーンの回想を次のように述べています。

〔すると、ブッダが〕「バッダーよ。いらっしゃい(ehi)」と言われました。それが、私にとっての受戒でありました。

受戒」という言葉を聞くと、煩雑な手続きを通してようやく達成されるものというイメージがありますが、最初期の仏教では釈尊に「いらっしゃっい」と言われて仏・法・僧の三宝に帰依するだけで「受戒」と見なされたのですね。

どっかの宗教団体のように「入会カード書いて、勤行を実践して、会合に参加して…」などとステップを踏む必要はないわけです。

しかもこの「いらっしゃっい(ehi)」という言葉は特別な言い方で、バラモン(聖職者)が「供物を捧げる人」に対して呼びかける際、相手が同じバラモンでなければ普通は用いません。

ヴァイシャ(庶民)に対しては「来なさい」、クシャトリヤ(王族)には「走ってきなさい」、シュードラ(隷民)には「急いで来い」という風に、それぞれ異なる言い方がなされます。

ゴータマは女性出家者に対して「いらっしゃい」という「最上級の丁寧な言葉」を使用したわけですね。もちろん男性出家者に対しても同様に接しています。

ゴータマにとって平等も抽象的な概念ではなく、他者と接する際の具体的な振る舞いによって示されるものであったと言えます。

先ほども述べたように、後世になってからは、女性出家者の地位が低下し、文献においても特に漢訳仏典で男尊女卑的な記述が増えていきます。

先日は富永仲基の「加上の説」を紹介しましたが、原典、オリジナルの教えに焦点をあてつつ、後世に付け加えられたもの、あるいは削除されたものを検証し、どのような背景で変わっていったのかを検証していく作業が必要であると感じる次第です。

『創価教育学体系』を読む(1)

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こんにちは。

今年の夏はもう終わるんでしょうか。

異常な天候が続きますね。

 

さて、創価学会員というのは不思議な人々です。

創価学会員は「日蓮仏法は世界一の生命哲学、法華経は最高の経典、創価教育は最先端の教育」と、自分たちがナンバーワンであることをことさら喧伝します。

しかし実際のところ、学会員で日蓮の『御書』全編を読破した人は意外に少なく、『法華経』は日々読誦している一部以外は読んだことすらなく、創価教育の原点である『創価教育学体系』にいたっては名前しか知らない会員がほとんどというのが実態です。

かくいう私もその一人だったわけでして、そうした反省から日々研鑽をしています。

 

創価教育にしても、そもそも一体何だったのだろうか、提唱者である牧口常三郎初代会長の問題意識はどこにあったのだろうか、現在の創価教育機関は創価教育なるものを体現しているのだろうか、等々、疑問は深まるばかりです。

現在の創価教育機関に関しては、聖教新聞でも頻繁に報道されていますが、やれ箏曲部が一位になっただの、やれ弁護士や公認会計士が何人出ただの、やれスーパー・グローバル大学に認定されただのといったものばかり。後は「創立者との絆」という麗しき伝記が載るぐらい。

実績だブランドだといった事にしか関心がないのでしょうか?

創立者にお応えするため、社会で実証を示し、創立者の正義を宣揚する」学生を輩出するという、非常にシンプルな発想しか見えてきません。

別にそれだけなら創価の学校に行かずとも、学会員自体が同じ考えで活動しているではありませんか。

とにかく何でもいいから実績を残して、ブランドを高めようとする発想は、公明党も同じです。

弁護士になるという実証を示すことよりも、弁護士になって何をなしたいかでしょう。

 

牧口氏が生きていたら、現在の創価教育機関を見てどのように評価するのでしょうか。

しかしそれも牧口氏の著作に触れないことには知りようもありません。

ということで「『創価教育学体系』を読む」と題して、氏の教育理論・思想を検証し、現在の創価教育に果たして繋がりがあるのかないのかを見ていきたいと思います。

 

創価教育の理論体系をまとめた『創価教育学体系』は、昭和5年(1930年)11月18日に発刊されました。当時の日本の教育の現状を憂い、独自の教育理論を構想した牧口氏は、弟子の戸田城聖(後の創価学会二代会長)の協力のもと、本書を著しました。

教育改革を運動の旨とする「創価教育学会」も設立するわけですが、残念ながら現在の創価学会で氏の著作を直に読む会員は少ないのが実情です。

 

さて、早速ですが、牧口は(以降敬称略)本書の第一編・教育学組織論の緒論において創価教育学の定義を述べます。

創価教育学とは、人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する方法の知識体系を意味する。

人間には物質を創造する力はない。われわれが創造しうるものは、価値のみである。いわゆる価値ある人格とは、価値創造力の豊かなるものを意味する。この人格の価値を高めんとするのが、教育の目的で、この目的を達成する適当な手段を闡明(せんめい)せんとするのが創価教育学の期するところである。(『牧口常三郎全集 第一巻』東西哲学書院、1965年、11頁)

要約すると、創価教育学とは、価値創造力の豊かな人材を輩出し、その人格価値を高めるための手段を研究する学問であるということですね。

うーん、手段云々の前に、そもそも創価教育学が重んずる「価値」って何?「人格」って何?というところが先ず大事ですね。

「価値」については後々彼の「価値論」が展開されていくわけですが、「人格」にしても具体性が問題になってきます。

こういったところを蔑ろにして手段の議論に走ってしまうのは危険な気がします。

現に創価教育の機関で学んだ人々がどういう価値を生み出していて、どういう人格を培ったのかが正直よく分からないのです。

今後も少しずつ内容を紹介しながら、考えを述べていきたいと思います。

富永仲基と「加上の説」

大変ご無沙汰しております。

三ヶ月ぶりのブログ更新です。

ツイッターはちょこちょこできるからいいですね笑

 

ともあれ更新をお待ちいただいた方々には申し訳ない気持ちです。

 

さて、最近の私の関心は原始仏教上座部仏教大乗仏教法華経日蓮、そして現在の創価学会に至る「流れ」ないし「系譜」を客観的かつより明確に捉えていくことにあります。

 

未だに創価学会では、「法華経こそは、釈尊が説いた最高の教えである」との天台と日蓮の解釈を引きずっており、客観的に文献を検証するということができないでいます。できないというよりそういう意欲自体がありません。

 

今の組織では9月の「教学試験」に向けて動いていますが、この教学試験なるものには大きな弊害があると感じます。一応釈尊の生涯とか、法華経の中身とかについても触れていますが、概略にもほどがあり、肝心なところは端折られている現状です。海外での試験も聖教新聞で報道され、盛んに教学運動をやっている印象を受けますが、問題は内容でしょう。ある面だけを見せて、他の面を見せない、一種の手品のようなやり方です。

 

もし本当に仏法のことを学ぼうと思ったら、真実の仏法を奉じると主張する創価学会の書籍よりも、一般の書籍を読まなければ何も分からない。実際様々な文献を読めば読むほど目から鱗です。

 

おかげで法華経もより客観的に読むことができるようになりました。もちろん、法華経を全否定するわけではありませんが、他の経典と同じく、「後世の産物」として、作者達の意図に着目する視点が大事であると考えます。

 

特に検証する側の姿勢として参考になる人物が富永仲基です。この江戸時代の学者は、日蓮の如く数多の経典を研究した大学者で、経典の成立について「加上の説」を唱えました。

 

これは、「すべての思想や宗教は前にあったものを超えようとして、それに上乗せしながら作られていった」という考え方です。これをもとに展開されたのがいわゆる「大乗非仏説論」(大乗仏教はお釈迦様が自ら説いたものではなく後世の産物であるという説)です。もちろん日本の仏教界では好意的に受け止められていないようですが、冷静かつ真摯に歴史的な文献として研究する彼の姿勢を評価する声もあります。

 

仏教学者の佐々木閑氏の説明によると、「当時は自分のイデオロギーを裏づけるために学問するという姿勢が当たり前だった」のに対し、富永は「自分の先入観や偏見にとらわれずに、現象をそのまま記述していく」スタイルを貫きました。経典を読む際も、「誰かが意図を持って書いたものをその意図にあやつられながら読むのではなく、『真実は歴史の裏に隠されている』」という視点で研究していきました。

 

信仰者の場合、ともすると「私たちは学者ではない!法華経に説かれたことは全て真実なのだ!」と冷静で客観的な検証を忌避してしまいがちです。

しかし、「行学の二道」「道理証文」を重んじる日蓮を崇敬するなら、また真理を求める求道者であるなら、犀の角ように独り歩みながら研鑽する真摯な姿勢こそ仏法者というものでしょう。

 

現に、大乗仏教を否定したと批判される富永もそうした一人であり、釈迦の教え自体はしっかりと認めています。物事に執着する我見の克服が仏法の目的であるなら、「自分の先入観や偏見にとらわれずに」ありのままに見る姿勢を貫く富永仲基のような人こそ仏法者と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。

御書にない用語

こんにちは(*'ω'*)

ブログアクセス数5000まで来ました。

ありがとうございます。

 

もう5月ですね。

世間はゴールデンウィーク

創価学会は友好期間という名の選挙活動期間。

本当にご苦労様でございます(´-ω-`)

 

有意義な一週間を過ごし、福運を積んで境涯革命に挑戦されるそうです。

でもこの「福運」や「境涯」という言葉は日蓮の遺文である御書全集にないんですよね。

一体誰がどこから引っ張って来た言葉なんでしょうか。

機関紙の聖教新聞大白蓮華に目を通しながら、創価学会のホームページにある御書検索で調べて、検索結果が0件だったものを紹介します。

(私が創価学会のWEBサイトで唯一評価する機能です笑  皆さんも色々試してみて下さい↓

http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/

 

「福運」

まずこの言葉は、あらゆる指導に出てくる頻出用語です。大抵は「福運を積む」というような言い方で、信心をすると、貯金のように運気がたまっていくという話ですね。いかにも現世利益的な発想です。

 

「境涯」

これも不思議な言葉です。「境涯革命」と言う時には、経済苦や病苦を克服するという点で、福運と同じく現世利益的な言葉です。「偉大なる大境涯」と言った時には、日蓮や三代会長の「生き方」を讃える時に使いますね。

そして会員同士では「境涯が高い/低い」という言い方もあります。大抵は、苦境にあっても信心強盛な様を「境涯が高い」と言ったり、不平や不満を言う相手に対して「境涯が低い」と言ったりします。ちなみにこの「境涯が低い」という言い方は、結構人を傷つけます笑

 

「常勝」

「勝負」という言葉は出て来ますが、「勝ちまくれ!」的な勝利至上主義が日蓮にあったかは疑問です。

 

「法戦」

もはや学会においては選挙を指す隠語でしかありません。

テロリストが「聖戦」という言葉を悪用してるのと同じ次元ではないでしょうか。

ちなみにイスラム教には「聖戦」(ジハード)という言葉はあり、もちろん人殺しを正当化などすることは本来の聖戦ではありませんが。

 

「魔性」

「仏性」があるから「魔性」もあるだろうと思ったらなかった笑 

 

「愚痴」(*追記: 「愚癡」の表記で存在しました。一番下の追記を参照ください。

れっきとした仏教用語ですが、御書にはない笑

「愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く」という指導は何を根拠にしているのでしょうね?不平不満ばかり言っていてはダメだよというのは分かりますが、人間なんだから愚痴の一つや二つ言いたくなりますよ。煩悩否定は人間否定、灰身滅智の教えだったのではないですか?人間的なものまで否定する人間主義とはいかに?

 

「奥底」(おうてい)

よく「奥底の信心」とか「生命の奥底」「奥底で拝する」なんて言い方がされますね。これは解説するというか意味不明な言葉です。「奥底でわかってないから退転した」という言い方もされますが、そんなこと言い出したら、どんなご都合主義的な解釈も、「奥底」で理解してない自分が悪いみたいになりませんかね?

 

「宿命転換」

ない笑  「あなたの命にある宿命なのよ。宿命は変えられるわ!」いきなりこれ言われたら一般の方々はドン引きですよね( ̄∀ ̄)

 

「己心の魔」

己心の法、妙法、仏、一念三千などはあっても「己心の魔」に類するものはありませんでした。何か疑いや批判をもつと、「己心の魔に負けてる」なんて言われますね。組織の問題を個人の問題にすり替え、自己責任のように言うのはいかがなものでしょうか。

 

師弟不二

まぁこれは調べなくても笑なんですが、この言葉ほど弊害をもたらしている言葉はないんじゃないでしょうか。志を共有するとかならまだしも、池田名誉会長の指導を教条的に振りかざす人々が増えてしまいました。「師弟相違せば」という表現は確かにありますが、目的を同じくするのか、意見まで同じくしなければいけないのか、そこは冷静な議論が必要でしょう。

 

謗法払い

まぁこれは今の組織では聞かないですね笑

でもこの言葉をもとに長い事、折伏相手の所持していた神棚や仏像を捨てさせたりしてましたよね。「邪宗の害毒」なんて言葉も御書にありませんが、まるで「ばい菌扱い」笑  「八風」にも侵されない賢人が何故恐れる必要があるんですかね?そんなに気になるなら公明党に十字路を廃止するよう言ったらどうでしょうか?

 

「半眼半口」

あーもうここまで来るとオカルトですわな笑

亡くなる際に眼と口が半開きの状態になっていることが、成仏の証なのだそうですが、別に信心してなくても似たような表現は拝見しますし、最近は化粧もしっかりしてるから良く見えるんですよね笑  逆に口がしっかり開いちゃってると一生懸命半口にしようと手で押さえる始末 笑  ←実話です。別に安らかな表情ならいいじゃないですか。

 

もちろん御書に書いてなければ仏法じゃないなどと言うつもりはありません。

「人間革命 」だって「成仏」を現代的な言葉で捉え直そうとしたわけですよね。(初出は東大総長の南原繁氏ですが、それはおいといても笑)

ただ、上記に挙げたような言葉が、一体何を根拠に、法華経日蓮の教えとどう関係していて、そしてそれらをどのように現代に展開しようとしているのか。こうした点があまりにも曖昧にされたまま、濫用されていることは問題視すべきだと考えます。

 

「福運」という言葉に現世利益的発想が垣間見えるように、言葉一つ一つが思想を体現しています。

その言葉に秘められたものを検証し、それが果たして仏法と言えるのか、また現代に有効なものと言えるのかをしっかりと見定めていく必要があるのではないでしょうか。

そうしないとこういう言葉に惑わされて思考停止に陥ってしまう危険性があります。

もし皆さんからも疑問に思う用語があれば、コメントやツイッターなどで教えて下さい。

 

*追記詳細

ツイッターより「愚痴」は『聖人御難事』にあると御指摘がありました。確認したところ漢字が「愚痴」ではなく「愚癡」でした。ネット検索で調べる場合は注意が必要ですね。

以後、表記の違いに注意を心がけます。

 

また、聖人御難事においては熱原の信徒を励ます意味での文脈ですね。やはりこれも現在の学会での使われ方とは違和感がありますね。

 

ともあれ、御指摘感謝です。

もしお気付きの点等ございましたら、コメントやツイッターでお知らせいただければ幸いです。

「犀の角のようにただ独り歩め」:組織は悟りに必要なのか

ご無沙汰してます_φ( ̄ー ̄ )

 

中々毎日更新できていなくて申し訳ありません。

ツイッターは短いので気軽につぶやいてますが笑

ツイッターでは他の方々の投稿も見ていますが、最近気になっているのが、「師匠を求めぬく中に仏法がある」という見解を多くの創価学会員の方々が持っていることです。

 

仏法における「求道心」とは、悟りを求める姿勢を指すと一般には解されますが、何故か創価学会では、「師匠を求める心」に置き換えられています。

池田名誉会長の指導を読み、創価学会の活動をしていく上での指針とすること。

池田名誉会長が今何を求められているかを考え、それを実現するために行動すること。

以上の二点が、「師匠を求める心」の具体的な内容といえます。

 

ここからは、本来仏法とは一体何なのかという視点はありません。

仏法の究極の教えは南無妙法蓮華経の題目を唱え、他にも弘める修行であるとして答えを既に出してしまっています。

よって、仏法とは何かという内容面は決着がついているとして、いかに実践し弘めるかという方法論にしか関心がない、というのが創価学会のスタンスであると言えます。

 

会員の多くは、仏法とは何かということに対しては、完全に組織の見解に依存してしまっていて、自分でまず思索することに消極的であるだけでなく、「組織を離れて正しい信仰はない」と強く信じています。

 

師匠への依存と組織への依存。

今回は後者を中心に考えてみたいと思います。

 

果たして、自分で思索を深めることもせず、組織に依存することが本来の仏法のあり方と言えるのか、この点はしっかり検証していく必要があると考えます。

 

もちろん、歴史上サンガという教団が存在していた事実がある以上、組織を頭ごなしに否定する必要はありません。

ただし、釈迦の思想はあくまで修行者一人一人が「独立した個人」であることを前提としており、その上で「サンガ」という修行者の共同体が存在していました。

この事は最古の原始仏典・「スッタニパータ」において、「犀の角のようにただ独り歩め」という表現で言い表されています。(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、2007年、以下17-19頁、253-255頁参照)

 

この譬喩は「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境と生活を指しています。

犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ」という指針が示されているんですね。

独覚」という言葉でも知られるこの境地は、初期仏教の理想とされていました。

 

訳者の中村元氏によれば、インド人はもともと内向的な性格で、独り思索に励む事を楽しむ習慣があるといわれています。

このインド人の性格が、そのままインド思想の特徴にもなっているわけですね。

これを独善や自己満足と捉えるのは軽率です。「ひとり沈思して自己を反省し、人間主体の深奥に入り込み、直観的に絶対の主体を把捉しようと努める。

この姿勢は釈迦の自帰依・法帰依の思想のベースにもなっていると言ってよく、その自己の実存をかけた高度な精神の営みは、むしろ普遍性に至ろうという気迫を感じさせます。

 

更に興味深いのは、こうした独特の思惟方法が、古代インドの風土と密接不可分にある点です。

最古代の時点で、インドの農業生産は、その恵まれた自然環境と絶妙な自然サイクルのおかげで、労働力をさほど必要としない極めて容易な営みであったことがわかっています。

生産性を上げるために、多くの人々が共同する必要性はほとんどなかったんですね。

他者への依存性が低い生活を営んでいたインド人にとって孤独であることは自然な状態でした。

この記録は、当時のインドを訪れたギリシア人によるものですが、「ポリス的人間」という人間観をもつ彼らにとって、インド人の孤独を楽しむ様はかなり異様であったそうです。

 

むろん原始仏典においても、他者との共同生活を否定していたわけではありません。「一人孤独に修行せよ」「静かなところに住め」という教えとともに、「善き友をもて」という教えも説かれています。

一見矛盾したことを言っているようですが、ここでいう「善い友だち」とは「世俗から離れる」ことに賛同した人々を指しています。

高い目的のために協力することは称賛されているのである。ここに仏教の集い(サンガ)の成立する思想的根拠が認められる。

 

つまり、仏法における組織は、悟りを求め、同じ志を共有した友人たちと協力し合い、支え合う意味で認められていたに過ぎなかったわけです。

「組織に属していなければ悟りが得られない」という発想はありません。

またその共同体の中における個人とは、「犀の角」のごとく、自分の確信を大事にしながら思索を深める人間であることが前提になっています。

こうした点から考えても、今日の創価学会で強調される組織論は、個々人の悟りを理想とする仏法の在り方に合致したものとは言えません。個人の独立した思考が重んじられるどころか、「我見」として戒められ、むしろ思考停止が助長される組織なら、そのような組織の必要性など皆無でしょう。