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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

ブログの紹介

こんにちは(`・ω・´)

 

このブログでは、哲学や宗教、政治経済、時事問題など、縦横無尽に書き連ねていきます。

 

興味関心が広範なため、トピックがころころ変わると思いますが、私は宗教法人創価学会の会員でもあり、学会や公明党、そして学会が崇敬する日蓮に関する記事も頻繁に書いていきたいと思います。

 

学会員といっても、私は学会や公明党の良い面も悪い面も、思う事を率直に語っていくつもりです。

 

様々な方にご覧いただくことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

 

ツイッター

https://mobile.twitter.com/yurukatsu21

 

虚妄の「悪魔化」の連鎖:現代文明の思想的課題

皆さんこんにちは(*'ω'*)

 

国内組織の衰退が著しい創価学会

聖教新聞ではその現状から目を逸らさせるかのごとく、連日海外組織の記事が紙面を飾っています。

教義問題の変更も頻繁に行われている昨今。

創価学会仏」という頓狂な教説も出てくるようになりました。

ブラジルの会合でも「創価学会仏」の意義について語っていますね。恐らく他のSGIにも浸透させる気でしょうが、本当に世界でも通用する教義だと思っているんでしょうか。セクト主義と思われないように、海外では日蓮本仏論をひっこめていたにも関わらず、ここへ来てセクト性を強める教義を打ち出そうというのは、理解に苦しみます。

 

創価学会内部の改革派の会員には、「今は執行部と公明党の暴走こそが喫緊の課題だ!教義問題をやっている場合ではない!」と仰る方々もいらっしゃいます。

彼らの危機感は理解できますし、問題意識を全否定するつもりはありません。

ただ私には、常に誰かを悪者にして排斥していく発想こそ創価学会が内在的に抱えてきた問題であり、その点を見過ごしてしまうと、堂々巡りになってしまうのではないかという懸念があります。

教義問題また思想の問題を疎かにしてきたからこそ、「選挙をやると功徳が出る」「仏法は勝負」といった、現世利益的かつ成果主義的言説に惑わされるようになってしまったのではないでしょうか。

 

特に誰かを悪魔化して排斥するという発想はいただけません。

 

日蓮は幕府の権力者達や諸宗の聖職者達を失脚させれば事足れりと考えたでしょうか。

血盟団事件を引き起こした日蓮主義者達はそう考えたかもしれません。

現にこの発想はクーデターにつながりますね。

日蓮にも他者を過激に批判する面はありましたが、あくまで「道心あらん人・偏党をすて自他宗をあらそはず人をあな(蔑)づる事なかれ」(開目抄、219)と、他者を悪魔化して排斥することを諌めていました。
‪「皆自宗を堅く信受し先師の謬義(みょうぎ)をたださざるゆへに曲会私情の勝劣なり」(同頁)と、思想的な総括や捉え直しを疎かにして、宗派間の争いや宗内の内ゲバに陥っている様を嘆いていたのは日蓮です。

 

世界に目を向けてみれば、思想や宗教、民族の違いをめぐって、互いに悪魔化し合っている様子が見てとれます。

典型的なのはヨーロッパに見られる移民排斥で、移民を悪魔化して排除しようという動きがありますね。

確かにそういう面もあるのでしょうが、移民排斥やEU離脱を訴える人々の全てが、必ずしも非寛容な立場から主張しているのでしょうか。

 

国際経済の事情に詳しい経済評論家・三橋貴明氏は、ルペン氏率いる国民戦線を単なる極右として片付ける動きは問題であるとしています。

「フランスで「何」が起きているのか」

三橋貴明オフィシャルブログ『新世紀のビッグ・ブラザーへ blog』

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12268769875.html

記事にもある通り、EUの問題点として、極端な新自由主義グローバリズムに基づく政策を行なっていた点が挙げられています。

 

EU域内においては、規制緩和自由貿易、そして緊縮財政と、国民経済の秩序を不安定にさせ、格差の拡大と貧困の増加を生み出す政策が続いていました。

当然自由貿易の中身に人間の移動の自由化も含まれており、大量に移民が押し寄せ、多くの職が低賃金も厭わない外国人労働者によって担われるようになった現状があるわけです。

ルペン氏との対立候補であるマクロン氏は、グローバリズム的政策を推進する立場です。

必ずしもルペン氏が極右の悪魔で、マクロン氏が中道の紳士だと安直に決めつけることはできません。

もちろん、だからといって移民排斥を肯定するつもりは毛頭ありませんが、無制限の移民受け入れには反感を抱く国民が増えてきたことは否めないでしょう。

 

にも関わらず、生活が脅かされた人々の悲痛な叫びすらも「極右」として十把一からげにカテゴライズすることは、これもまたある種の悪魔化に他なりません。

新自由主義グローバリズム、金融グローバリズムグローバル資本主義

色々な言い方はあれど、貨幣によって翻弄される現代文明の課題から目をそらし、互いを悪魔化し合い、非難し合い、排斥している場合なのでしょうか。

世界情勢におけるこうした問題を見るとき、創価学会での情勢も、一体共産党北朝鮮を悪魔化している場合なのか、執行部や公明党を悪魔化している場合なのか、よくよく考えていくべきではないでしょうか。

釈迦の過去世をめぐる思索:成仏、誓願、そして授記

ブログを開設して早1ヶ月が経ち、ブログアクセスも4000を超えました。

創価学会公明党に関する、しかもあまりセンセーショナルでない笑、思想的な問題点の指摘を中心に書き連ねているマイナー中のマイナー笑な内容にも関わらず、恐縮です。

いつもご愛読、コメント、シェア等、ご支援いただき、心から感謝申し上げます。

創価学会公明党に内部から批判の声があがっても、信濃町本部や幹部批判、公明党批判といった体制批判に留まり、思想的な総括・反省が抜け落ちている。

これが私の問題意識ですが、同じ様に感じてる方々も少なからずいらっしゃる事を、ブログやツイッターを通して知ることができました。

今後ともご教示いただければと思います。

よろしくお願いしますm(._.)m

 

さて、最近は原始仏典、大乗仏教法華経日蓮遺文等々、それぞれの時代のテキストや資料を同時に紐解きながら検証しています。

創価学会内では知り得なかった事が多く、その情報統制の中で、いかに自分の理解が偏っていたかがよく分かります。

 

 

例えば、「成仏」という言葉。

学会教学では、亡くなることではなく、「仏になること」だと教わりました。

また、一般的な仏教のイメージでいう苦行を通してではなく、南無妙法蓮華経の唱題と題目を弘める折伏を通して、その身そのまま(即身成仏)今世で成仏できるとしています。

しかし、「即身成仏」という概念が密教から来ていることはつい最近まで知りませんでした。

日蓮が「真言亡国」として密教を批判しているため、詳しいルーツを教えないのでしょうか?

 

以前から紹介している仏教学者・佐々木閑さんの『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2017年、以下33-39頁)は大変に勉強になります。

「成仏」という言葉も、さも当たり前の様に使っていますが、上座部仏教では、修行者の目標は「ブッダ」ではなく「阿羅漢」になることでした。

同じく仏教学者の植木雅俊氏の補足を加えると、「阿羅漢」はサンスクリット語のアルハンの音写で、漢訳すると「応供(おうぐ)」(供養を受ける資格のある者)となります。

元々は「尊敬に値する人」という意味で、十号(仏の十種類の呼び名)の一つであり、仏の別称だったのですが、上座部仏教では「ブッダ」よりは断然低いレベルとされました(『人間主義者、ブッダに学ぶ インド探訪』学芸みらい社、2016年、268頁)。

逆を言えば、上座部仏教では「ブッダにはなれない」と信じられていたんですね。

 

そして、「ブッダになること」を明確に目標としたのが大乗仏教でした。

しかし、目標としたはいいものの、釈迦の生涯を記した文献を読んでも、どの様にして釈迦がブッダになったのか、その修行方法は分かりませんでした。

そこで修行者達は釈迦の「過去世(前世)」にヒントがあるのではないかと考えました。

釈迦ももともとは凡夫であり、普通の人間なのだから、輪廻を経験しているはず。

ならば、過去世に別のブッダに会っていても不思議ではない

そしてその出会いによって釈迦はブッダを目指し修行していたのではないか。

「ただの妄想じゃないか」と呆れるかもしれませんが、この様にして、輪廻の概念をもとに釈迦をブッダたらしめた要因を探っていくわけですね。

そして過去世に出会ったブッダの前で、釈迦は自身も「ブッダになること」を誓ったはずだと考えます。

これが「誓願」と呼ばれるようになるのですね。

また同時に、過去のブッダの方は「お前は将来、必ずブッダになれるだろう。頑張りなさい」と釈迦を励ましたに違いないと考えました。

これが将来ブッダになれることを保障した「授記」の概念ですね。

 

もちろん「いくらなんでも空想が過ぎるだろう」と言いたくなるのもわかりますが、大乗仏教以前に書かれた『燃燈仏授記』にも似たような表現がでてきます。釈迦の成道前に現れた燃燈仏(ディーパンカラ)が、「あなたは未来において悟りを開いてブッダになるであろう」と予言しています。

よって、「誓願・授記」という発想も、決して突拍子もない話とは言えません。

そして、釈迦が過去世において出会ったブッダは一人とは限りませんので、何度も何度も輪廻を繰り返すうちに、多くのブッダと出会い、最終的に自分がブッダになったという話にまで発展していきました。

 

余談ですが、この「誓願」という言葉も創価学会では誤用・乱用されていますね。もともとは「修行者がブッダに対し自身もブッダになることを誓うこと」だったはずが、「弟子が師匠に対し勝利を誓うこと」にされてしまっています。

祈りも「誓願の祈り」でなければ叶わないとされ、「結果」を出して「勝利のご報告」をするという、師弟論に利用されています。

創価学会勝利主義・成果主義は、こういう用語の使い方にも示されているんですね。

「思想の下男根性」: 憎悪の果てに未来はあるか?

いつもご愛読いただきありがとうございます。

 

最近はツイッターで色んな方々と意見交換させていただいていますが、創価学会には、「思想」というものが簡単に持てるという発想があるのではないかと感じています。

信仰」と言った時には、どんな人でも祈る事はできますが、「思想」と言った時には、自分でよく考え、深めていかない限り、ただの借り物のままです。

そうしないと、借り物の教えは教条的なイデオロギーになりがちで、いざ何かしらの問題が発生し、危機が起きても、その枠を超えて現実を認識し、対応していくことができないのです。

 

昨日紹介した大乗仏教勃興期の時代背景はまさにそうですね。

支援者が経済的に困窮していく中で、いつまでも出家主義にこだわっていては、サンガ自体がもたなかったに違いありません。

大乗仏教前の部派仏教時代にしても、教条的に破和合僧の教義を振りかざしていては、かえって教団の内ゲバが激化してしまうという現実がありました。

 

こうした点から考えても、危機の時代にあって、仏法思想の捉え直しこそ仏法の生命線です。私が創価学会の問題を認識しながらも、「創価」という言葉はやはり大事だと思うのは、時代に即して新たな価値を創造していこうという仏法の気概を感じるからです。

その捉え直しを図ろうと研鑽している人々を、「我見」と蔑み、「創価の名をカタるな」と否定している方々こそ、創価」の意味を自分で考えたことがあるのか、と私は問いたい。

 

北朝鮮に不安を感じる方々も逆に安倍政権に反感を抱く方々も、思想の検証をする人々に対して、「今そんなことをやっている場合か!」とおっしゃいますが、ハッキリ申し上げてこちらのセリフです。

創価学会の打ち出しに煽られて「反逆者」や共産党を仏敵として糾弾している方々。逆に反発して執行部や公明党を師敵対として非難している方々。彼らの方こそ、憎悪にかられてイデオロギーを振り回している場合なのでしょうか?

 

ロシアの作家ドストエフスキーは、イデオロギーに翻弄される人々の精神性を見抜いていました。

無神論社会主義が流行していた時代を描いた小説『悪霊』の中で、彼は登場人物にこう語らせています。

無神論を喧伝する人々は)紙でできた人間なんです。何もかも思想の下男根性のせいですよ。(中略)憎悪もあるんだな。(中略)もしロシアが何かこうふいに改革されて、まあ、あの連中の方式でもいいけれど、何かこうふいに途方もなく豊かで幸福な国になったとしたら、真っ先におそろしく不幸になるのはあの連中でしょうね。そうなったら、あの連中、憎悪の対象も、唾を吐きかける相手も、嘲弄する相手もいなくなるんだから!あの連中にあるのは、ロシアに対する動物的な、際限のない憎悪、体質にまでなってしまった憎悪ですよ……(新潮文庫、2006年、261頁)

かなり長い引用で大変恐縮ですが、「思想の下男根性」とは、思想を自分で消化する事もせず、憎悪の対象を見つけては攻撃し、溜飲を下げるために利用している精神性を指しています。

つまり思想の捉え直しに関しては極めて保守的な人々が叫ぶ「改革」は、自分たちはちゃんと戦っていたというアリバイ作りに過ぎないのです。

フランス革命に批判的だったゲーテも、改革者気取りを茶化した福沢諭吉も、真の思想家たちは皆こういう人々の正体を喝破していました。

 

『悪霊』のもう一人の登場人物もこう言います。

おまえらはまず真っ先にギロチンをかつぎ出してきて有頂天になっているが、それは頭をはねるのがいたばん簡単で、思想をもつのは何より困難だという、それだけの理由からじゃないか!オマエラハ・ナマケモノダ!オマエラノ・ハタジルシハ  ー ボロキレダ、ムリョクダ!(前掲書、409頁)

現執行部を退陣させ、公明党と手を切って、その後どうするつもりでしょうか?

憎悪と怒りにまかせて追い出しても、残ったのが新しいビジョンもなく怒った人たちだけでは、何も生み出せないでしょう。

思想的な問題自体を放置したままでは、また似たような状況を繰り返すだけです。

 

本当の危機とは、そんな「悪人」が現れたことではありません。

「執行部退陣!」「公明と手を切る!」なんてそんな単純な解決策誰だって考えつきますよ。

「悪人退治」とやらをすれば解決する問題なら、大した事はありません。

危機は英語でcrisis基準を意味するcriteriaと語源は同じです。

要するに、本当の危機とは、自分たちが信じてきた価値基準の正当性が問われている時です。

だからこそ、思想のルーツにまで遡って検証、思索し、波乱の時代にどう新たな価値基準を生み出していくのかを考えていく事が必要なのではないでしょうか。

求道心とは何か:硬直化を打ち破るダイナミズム

皆さんこんにちは(*・ω・)ノ

 

さて、アショーカ王の時代に成立したとされる部派仏教。一般的な学説では、その内部から、後に「大乗仏教」と呼ばれる仏教が発生したとされています。

釈迦の仏法に対する「解釈の多様性」を認めたのですから、更に独特の教えが成立していくことは避けられません。

 

大乗仏教が興ったのは今から約二千年前とされていますが、この時代のインドでは、マウリヤ王朝の滅亡異民族の流入による混乱がありました。

激動の時代の中で、出家者を支えていた人々の経済はおろか生活の基盤までが脅かされていきます。

支持者の養いがなければ、当然出家者も修行を続けることができなくなってしまいますよね。

出家が困難な中で、在家のまま修行をしていくにはどうしたらいいか。

この経済的要因も、在家のまま悟りを開くことができるという大乗仏教の主張に影響していたのではないか、と推測されています。(佐々木閑『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』NHK出版、2017年、28、32-33頁参照)

 

無論、「もっと多くの人々を救っていきたい」という文字通り「大乗」の志で展開していった面はあるでしょうし、他にも要因は考えられます。

しかし、大乗仏教の勃興期が、こうした激動の時代であったことは確かで、どのようにして仏法を新しい形で展開していったらいいかという挑戦があったことは間違いありません。

 

こうした歴史を見るとき、現代における創価学会の運動はどうでしょうか。

 

一昨日ツイッターでのやり取りを紹介しましたが、一部の学会員の原理主義的な言説には無責任極まるものが多く、辟易しています。

私は人間・日蓮を尊敬する立場であり、人間である以上、同意できる面もあれば、同意できない面もあります。当たり前の事です。

ところが、一部でも同意できない面があると、日蓮を否定したことになるそうです。

肯定か否定か、1か0かでしか捉えられないのは思考力の欠如の表れです。

またこれこそが原理主義というものです。

 

おまけに「師弟相違せばなに事も成べからず」という日蓮の言葉を用いて、私が日蓮を否定していると結論づける始末。

あのですね、「師弟相違」しないことと、日蓮の思想全てに同意することが同じなのですか?

では日蓮は師匠・道善房の全てを肯定していたのですか?

 

しかし、こうした指摘には答えず、末法のご本仏と認めない人間には創価を名乗る前提がないとして、論点をずらす。

まともな反論もなくただ教条的に他者を悪、自分は正義と宣言すれば決着がつくほど、「正義の言論」は安っぽいものなのですか?

そんな簡単に証明できる「正義」なら、もともと大したものではなかったことになってしまいますよ?

「師匠の正義」を宣揚すると言いながら責任ある言論を展開しないなら、「師匠の顔に泥を塗っているのは誰なのか」と言われても仕方ありません。

 

「功徳罰論」「師弟論」「日蓮本仏論」等々、原理主義に陥ると、「論」ではなく不変の「真理」としてしまうため、後は「宣揚すればいい」という発想になるのです。

しかし「宣揚」とは、他者の人生に影響を及ぼす行為です。

商売に例えるのは不適切と思うかもしれませんが、商売人だって、商売を通してお客さんの生活に影響を与える立場です。

そして、商売人は、自分が販売しているものが安全なのか、不備はないか、時期にかなったものか、需要を満たしているか、産地はどこか、しっかり確認し、責任をもって商いを営む事が求められますよね?

況や、人間の生き方の基盤に影響を及ぼす宗教であれば、教えの教義をしっかり検証していくことは当然必要です。

生老病死とどう向き合うか、釈迦より始まった仏法の本質を守りながらも、それを時代に即した形で展開しながら、拡がっていったのが仏法の歴史です。

 

またこのダイナミズムの中からしか、人々を魅了する力は生まれません。

グローバル資本主義の荒波の中で、民族主義原理主義に基づく紛争やテロリズム、国際社会の再編、加速する環境破壊という地球的規模の問題を抱えた現代。

この激動の時代に即した形で、どう仏法を展開し、発信していくのか、それを追求していくことが本来の求道心ではないでしょうか。

硬直化した教義を改めず、ただ師匠の正義を宣揚すれば世界平和が実現すると考えているようでは、仏法のダイナミズムを失ったどころか、本来の求道心を失ったとみられても仕方がありません。

今、教団としての勢いが失速しているからこそ、新しい展開を模索していくチャンスなのではないでしょうか。

「破僧の定義変更」: 内ゲバを越えて

気がついたらブログアクセス3000を超えておりました(; ̄O ̄)
心から御礼申し上げます。
 
思想・教義の検証ということで、最近は様々な文献を読み漁っています。
昨日もオルテガのテキストを紹介したように、仏教関係であるかどうかを問わず、古今東西の文献を参考にしています。
意見の多様性を認めない傾向は、仏教の世界にも当然あるわけで、それを理解する上でも西洋の哲学に学ぶ点は多いですね。
ちなみにこの「意見の多様性」という問題ですが、すでに釈迦の滅後に直面しています。
いわゆる「部派仏教」という存在です。
これは「大乗仏教」の出現よりもずっと前の現象です。
 
「部派」の成立といっても、「分裂」と解するのは早計であり、「〇〇部」「××部」という「グループ名」に過ぎず、釈迦の教えの解釈に違いはあれど、互いに認め合って共存していました。
一つの共同体の中に、様々な派閥があっただけと言えます。まぁ派閥イコール分裂だ!とされる方は拒絶するでしょうね。
とはいえ、釈迦は一人でも、弟子が百人いれば百通りの解釈、「百通りの釈迦の教え」が生まれることは避けられません。
当然のことです。
 
逆にそれだけ多様化していけば部派同士で論争となり、結果としては完全な分裂に至りそうなものですが、この時点ではそうなっていません。
この現象は、アショーカ王の時代に行われた教義変更が理由だとされています。事実、「部派仏教」と呼ばれるものが成立した時代は、アショーカ王の統治下にありました。
仏教学者の佐々木閑氏によれば、多様な解釈を認めながら、仲間割れを起こすことのない様、「破僧の定義変更」という教義変更が行われたのだそうです(以下、『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』NHK出版、2017年、22-24頁を参照)。
破僧」は「破和合僧」の略で、「仏教の僧団組織であるサンガを分裂させる行為」を指します。
具体的には独自の解釈を用いて派閥を形成し、新たな教団として独立する行為が挙げられます。
釈迦の在世の時点で、「破僧」を画策したものを厳罰に処し、謹慎処分を下すことを定めていました。
 
しかし、先ほど述べた様に解釈の多様化自体が避けられぬ以上、厳格に「破僧」を罰しようとすると、「お前たちのやっていることは破僧だ」という非難合戦に陥り、収拾がつかなくなってしまいます。
際限なき内ゲバという現実に、当時の人々も直面していたのですね。
そこで、仮に釈迦の教えに対する解釈の違いが生じても、居住を共にし、集会や会議に参加していれば、「破僧」とは認めないというルール変更をすることになりました。
 
大衆部(摩訶僧祇部)という部派仏教時代の一グループの律に『摩訶僧祇律』という書物には、次の様な趣旨の事が記されています。
サンガ内に、もしお釈迦様とは違う解釈を主張する者が現れて悶着が起こったとしても、同じところに共住し、集団儀式をともに行っているかぎりは破僧ではない。別々に儀式を行うようになったら破僧である
分裂を防ぐための「破僧」という概念が、互いを糾弾するために利用され、凄惨な内ゲバを繰り広げてしまう様では本末転倒です。
だからこそ、解釈の多様化自体は容認するという苦渋の決断に至ったわけです。
 
今の創価学会でも、内ゲバが起きていますね。
日蓮や三代の会長の思想の解釈をめぐって「破和合僧だ!」と言い争う。
学会の場合は「師敵対だ!」という言い方もしていますが、多様な解釈を認めない点は同じです。
確かに、多様な解釈を認めると、際限なき改変が加えられ、本来の教えが著しく歪められてしまうという懸念があることも理解できます。
教えを歪めてはならない、しかしそれでも解釈が避けられないとなれば、本来の教えとは何かという緊張感を持ちながら、学びと思索を深めていくことが必要であると考えます。
そしてその勇気と責任感に基づく解釈がなければ、後の大乗仏教の興隆や、法華経、天台、日蓮による展開もなかったはずです。
「大聖人の仏法を汚すな!」「師匠を否定するのか!」と教条的に否定している様では、大乗仏教はおろか部派仏教以前に逆行していると言わざるを得ないでしょう。

「大衆の反逆」: 閉鎖性、支配欲、そして憎悪。

ごぶさたしてます_φ( ̄ー ̄ )

プライベートで忙しくしておりました。

それにしても春らしくなったと思った途端、暖かいどころか暑くなってきましたね。

 

昨日はツイッターで功徳罰論のおかしさについて述べたところ、ある創価学会員の方から論争をふっかけられました。

https://mobile.twitter.com/yurukatsu21/status/853609422614020097

途中までは冷静に話ができる方のようですが、最後までご自身の考えでお答えにならずに、「牧口先生の価値論を学ばれたらいい」と、相手の勉強不足で結論づけようとされています。

説得力が全くありません。

それを指摘しても「悩乱」「狂っている」「邪説」「邪魔」「言葉遊び」と相手を罵倒して否定することしかできない。

で、この方の根本にあるのはやはり「師弟不二」論なんですね。

説得する気はもともとないのでしょう。

ご自身が解釈する「師匠の指導」に依らなければ、現実を認識できない。

そしてそれに当てはまらない言説は全否定し駆逐してしまえばいい。

創価の名をカタるな」と仰いますが、この方の言動こそ、私が当ブログで一番最初に申し上げた師弟不二」というイデオロギーの影響を表しています。

 

20世紀を代表するスペインの哲学者オルテガは、「自分よりすぐれた審判をいっさい認めない閉鎖的な人間」を「大衆」と名付けています(『大衆の反逆』白水社、1985年、35頁)。上記の方にはこの「大衆」の特徴がよく表れています。「世界一の哲学」を説く割には驚くほど「閉鎖的」です。そして言葉遣いも上から目線です。

 

オルテガのいう「大衆」とは、エリート主義的な意味ではなく、ある精神的傾向の事を指しています。

その一つがイデオロギーを振りかざすデマゴギーです。

彼は言います。

デマゴギーの本質は彼の精神のなかにある。つまり、自分があやつる思想に対するその無責任な態度にあるのだが、その思想とて彼自身の創造になるものではなく、真の創造者からの受け売りなのである。(前掲書、38頁)

つまり、自分で思想を吟味する事はなく、紋切り型の言葉で相手に押し付けようとするのですね。極めて無責任です。

 

インドの詩人タゴールは、釈迦のドグマを徹底して排除する姿勢を高く評価しています。

「師匠の指導」を振りかざす言説は、「師匠の権威」を借りて自己の正当化を図ろうとする振る舞いであり、「人間主義」とは対極の「権威主義」的発想でありドグマなのです。

 

更に有名なオルテガの洞察を紹介します。長い引用で恐縮ですがお付き合い下さい。

サンディカリズムファシズムという見せかけのもとに、ヨーロッパにおいては初めて、相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えている人間のタイプがあらわれたのだ。(中略)平均人は自分のなかに「思想」を見いだすが、思想を形成する力には欠けている。(中略) 彼らの「思想」なるものは実際には思想ではなく、音楽つき恋愛詩のように、言葉をまとった欲望にほかならないのである。(前掲書、118-119頁)

説得しようという気概もなく、相手に自分の主張を押し付ける人々に本当の思想は存在しません。「言葉をまとった欲望」とは、相手を自分のイデオロギーのもとに屈服させ、自己の正当化を図ろうとする「支配欲」と「承認欲求」を意味します。

また、大衆とは「大衆でない者を徹底的に憎んでいる」のであり(前掲書、122頁)、彼らの屈折した正義感は憎悪と表裏一体なのです。

 

文明とは、何よりもまず共存への意志である。人は他人を考慮しない度合いに応じて未開であり、野蛮である。(前掲書、121頁)

「戦争反対」を主張していても、己が正義に固執するあまり、他者を悪魔化して排除しようとする、皮肉にもその閉鎖性こそが戦争を引き起こすのです。

以前の私も独善的な正義に固執するあまり、相手を傷つけたことがあるからよく分かります。

 

私が「功徳罰論」に疑義を呈したのは、一つには、信仰の本質が功徳が罰かで語られているために、自己を真摯に見つめる「観心」の姿勢が、今ほど欠落している時はないと感じているからです。

自己に対する内省的思索と、思想のルーツの冷静な検証をしていかない限り、いくら「〇〇反対!」といって旗を振っていても、本質的な変革など望むべくもないでしょう。