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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

選挙活動は「組織の引き締め」?

皆様ご機嫌よう(´・∀・`)

いつもありがとうございます。

ツイッターなどでも当ブログをご紹介いただき、重ねて御礼申し上げます。

 

悪天候で寒い日が続きますね。

寒がりの私は外ではコート・マフラーが手放せませんし、室内では未だにコタツを使い続けてます(。-∀-)

 

この寒い中、相変わらず創価学会の活動家の方々は、選挙に走り回っていらっしゃいますが、よくやるなぁと思います。

でもその行動力、もうちょっと別の事に活かせないのでしょうか笑

王仏冥合」*と言ったって、政治に限った話ではないし、社会貢献活動に従事する人もいれば、教育や文化交流に徹する人もいます。

(*法華経の本門の教えが国家・社会の指導原理となることによって、この世に寂光浄土が実現するという日蓮の教え。)

選挙やりたい人たちだけで公明党員としてやればいいんです。

財務も本当は必要ないですが、やりたい人だけで財務部員制度を復活させた方がいいと思います。

選挙も財務も全学会員に押し付けるから、ついていけない人々が増えてるわけじゃありませんか。

全員参加しなきゃ選挙に勝てない?

学会票がなきゃ議席が取れないなら、「大衆とともに」なんてスローガンは捨ててしまえばいいと思います。

結局大衆の支持なんて受けてないし、不信感を持たれているままです。

名実ともに創価学会の党になれますよ。

 

地元で役職についている方々の苦しそうな表情見ているとこちらまで辛くなります。会員宅を家庭訪問する時なんか、もはや「大衆とともに」だとか「平和の党」だとかいったことは言わなくて、ただ「功徳が出るから、選挙で一緒に願いを叶えましょう」としか言えなくなっています。

それもそのはず、今は理念的なことを言うと、却ってそれとはかけ離れた公明党の現状をツッコまれるわけですから。

「私たちは公明党を支援するために信心しているのではない」

その通りです。

だから「功徳」と結びつけるのでしょう?

 

社会や日本のためになんて本心でやってない。

自分たちが功徳さえ受けられればいい。

それは民主主義をバカにしているのです。

「大衆とともに」「大衆のために」と言いますが、無責任な選挙活動の結果、生活を振り回される「創価学会員以外の国民」の事など考えているのでしょうか。

それで「民衆仏法」ってギャグですか。

 

そもそも「王仏冥合」にせよ、「広宣流布」にせよ、組織の「政界進出の理由」にはなっても、個人の「選挙活動の理由」にはなってません。

実は学会の政界進出を決定した戸田城聖第二代会長も、選挙活動の理由には別のものを挙げていました。

つまり、「選挙になると会員たちの目の色が変わり、学会員の信心を引き締めるために使えるから」であると。(中野潤『創価学会公明党の研究 自公連立政権の内在論理』岩波書店、2016年、31-32頁)

要するに、選挙活動を「組織の引き締め」と「組織の拡大」の好機とする考え方が戸田氏の時代からあったわけです。

そして池田時代では「選挙に勝つことが信心の証し」ということがより強調されていきます。

 

とはいえ、組織の引き締めにはなっても、組織の拡大には現実の数字が追いついていません。

衆議院選挙の得票数にしても、過去最高とされる2005年の898万票をピークに激減しており、2014年では731万票にまで落ち込んでいます。

おまけに会員数が横ばいの中での2000年代前半の増加は、連立を組んだ自民党選挙協力のおかげでした。

821万世帯の学会世帯数を大きく上回る得票数が得られたのは当然の結果でしょう。

その選挙協力の効果も、学会員の高齢化に伴う集票能力の低下と、公明の政策の変化に批判的な支持者の増加によって打ち消されてしまい、2007年参院選以降の得票数の減少につながっています。

(前掲書、60、63頁)

 

選挙活動など、組織の拡大に直結しないどころか、自民党選挙協力がなければ、もっと得票数を下げることになる始末です。

自民党は公明の選挙協力がなければやっていけない」?

ちょっと何言ってるかわかりません。

 

このまま行けば当然得票数はもっと下がり続ける。政権与党に留まるためにはどこまでも自民党に依存していく。

無論都議会のように、自民党でなくても依存できるならくっついていく。

それでも票が足りなきゃ日本会議にも近づいてネトウヨ票も獲得したいというのが本音かもしれませんね。

 

学会の選挙活動もとうとう行くところまで行き着いたという感じです。

これ以上「功徳」をダシにして「引き締め」を計っても、むしろその分だけついて行けない人が文字通り締め出され、選挙活動から離れて行くことでしょう。

「時流信仰」: 日本の宿命と創価学会

ぜんごくの同志の皆様、いらっしゃいますかー!!! ♪───O(≧∇≦)O────♪

……のっけから創価ノリの挨拶ですみません。

時々出る発作ですから、気にしないでください。

でも本当に学会幹部の話し方は一様で、内容もテンプレばっかりなんですよねー。

「お元気な先生・奥様に見守られて」

「〜してまいりたいと思いますが、皆様いかがでこざいましょうかー!(拍手は義務)」

冠婚葬祭のスピーチなみに定型句の多い事。

何か色々考えて話すと、言葉もどんどん変化していくのですが、逆にテンプレばかりでボキャブラリーがいつも同じになるという事は、思想がないという事なんです。

それでよく「生きた宗教」などと言えるものです。

 

しかしこの「思想がない」というのは、創価学会の問題と言いますか、日本という国土と日本人という人々の問題でもあります。

もちろん、共産主義化やキリスト教化しなかったのも、思想やイデオロギーが根付かない気質のおかげだという意見もあります。

私も共感する点はありますが、「自前で体系的イデオロギーをつくったことはない」というのはやはり問題でもあるのです。

 

これは精神分析学者の岸田秀氏と評論家の山本七平氏の対談で知ったことなのですが、日本人は独自の思想を生み出していないどころか、自前の歴史観に基づく歴史書も作っていません。

その原因としては、日本人の精神の根底にある「時流信仰」と呼ぶべきものが挙げられます。

つまり日本人は、歴史というものを「流れ」として見るきらいがあり、それが「時流には逆らえない」という考え方を生み出しているということです。

 

そして、それが「ある国が生まれると天壌無窮、永遠にその国が続くと考える傾向」につながっていきます。

旧約聖書の世界観はこれと対極にあり、「歴代の大帝国を幻想」と捉えています。

大国の興亡を繰り返す彼らの方が、「諸行無常・盛者必衰」を心得ているというわけですね。

これに対し日本は「万世一系」の国柄です。

戦後の体制にしても、永遠に続くのだという信仰があります。

イデオロギー不信」故に、一度「体制」ができてしまうと、それを変えようとはしない。

「永遠に続く」と信じ込む。だから「絶対化」するのです。

(『日本人と「日本病」について』文春学藝ライブラリー、2015年、190-191頁)

非常に強固で保守的な精神性です。

 

私が思想や体系的なイデオロギーが今の創価学会にもないと感じるのは、まさにこの点にあります。

学会員の言う「創価の思想」や「池田哲学」も、もはや思想やイデオロギーではなく、「できあがった体制」でしかないのです。

どちらかと言うと、静的なイメージの強い「イデオロギー」という言葉よりも、動的なイメージのある「思想」という言葉の方を私は好みます。

そして「思想」と言った時には、常に「釈迦や法華経日蓮の現代的な価値とは何であるか」という問い直しがあり、悩みがあり、葛藤があります。

今の学会に溢れかえっているような「正解が与えられた世界」ではありません。

池田名誉会長は、「創価学会は三代で完成した」という勝利宣言をされていますが、残念ながら、悩み考えることをやめた時点で、それは「体制」と化し、「思想」は死ぬのです。

できあがった体制を絶対化し、永遠に続くと信じ込む。

創価学会も、この「時流信仰」ないし「永遠信仰」という日本という国土の宿命を背負った存在だったということです。

創価学会は永遠に勝ち栄えていく」のだから、後は「池田先生の哲学を宣揚すればいい」という発想に行き着きます。

それは時代に即した形で思想を発展させていこうという気概を失った「甘え」です。

皮肉にも「永遠性への確信」が創価学会の生命線を断つことになるのです。

 

現代世界にあっては、多くの国で排外主義やテロが横行し、国家間の争いは激化、環境問題も深刻さを増すばかり。

これだけ複雑すぎる要因が積み重なってカオスな世の中にあって、単一の解決法万能薬なるものがあるはずがありません。

あると信じられるのは、世界を単純化して分かったつもりになっているからです。

創価学会の、特に日本の組織における衰退は、少子化などの影響ではなく、学会が思想的に敗けたということの証明なのだと思います。

現実に悩んでいる人々と、「一緒に悩んでいこう、学んでいこう」という謙虚な姿勢もなく、いつまでも「池田先生の偉大さ」「創価学会の正義」を教えてやろうという態度では、人々を魅きつけていくことなど到底出来ないのではないでしょうか。

「幾通りもの法華経」が可能である。

ブログアクセス2000件超えました。

いつもご愛読いただきありがとうございます٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

昨日も引き続き法華経についてお話ししましたが、やはり創価学会のテキストだけでは知り得ないことが多すぎると痛感しています。

釈迦の時代や、法華経に関することも、概略を紹介するに留まり、それがどう日蓮の思想や曼荼羅本尊、南無妙法蓮華経の唱題行につながるのか見えてこないのです。

 

また、創価学会折伏をする際によく言われる例えが、「電化製品の説明書を読んでから始めるより、まずは効果を試してみてそれから勉強すればいい」、というものです。

 例えがコンピューターだったりリンゴだったり、何でもいいんですが、要するに「体験を積ませる」っていうことが先なんですね。

まぁ一理あるんですけれども、じゃあパソコンのプログラミングやらソフトウェアやら色々勉強するかっていうと必ずしもそうではありません。

 

要するにテキストの内容が偏っている上に、熱心に学ぶという姿勢が見られない。

作家の佐藤優氏が創価学会の教学試験をプロテスタンティズムの「万人司祭主義」に通じるものだと絶賛してましたが、プロテスタントの方々の勉強量には到底及ばないでしょう。

お世辞が過ぎます。

 

 また、前回は「主体的に読む」事の大切さについても述べましたが、テキストを読む際に、池田名誉会長や学会教学部の解説に基づいた読み方に留まりがちです。

すなわち、自分自身の目で見て考える読み方は「我見」であり、偏ったものであるという考え方があります。

もちろん、先人の解説を参考にする事を否定するわけではありませんが、結局のところはその解説自体も自分で解釈しているわけです。

これについては、池田名誉会長ご自身も、「解説だけ読んで分かったつもりになってはならない。御書の原文を自分自身で読み解く格闘がなければならない。」と、幾度となく発言しています。

これは、法華経に関しても同じ事が言えます。

創価学会員は、あくまで日蓮が引用する法華経の言葉、また日蓮の解説に依拠しているため、法華経についての理解も日蓮の解釈の枠を外れることがありません。

先ほども自分の解釈を離れてはテキストを認識し得ない事を述べましたが、それはつまり法華経を読む人の数だけ、幾通りもの法華経が成立可能だという事を意味しています。

 

作家の司馬遼太郎は面白い事を言っています。

日蓮宗を知ろうと思って法華経をご自身で読まれた時に、法華経には「日蓮宗のにおいはどこにもしない」と述べています。

曰く、法華経には気負いだったアクの強さがなく、日蓮の教えには彼自身の強烈な「自己肯定」の精神が表れていると。

(詳しくは下記URLの『折れない心=レジリエンス日記』様の記事「司馬遼太郎日蓮観」をご参照下さいませ。http://cgatakanen.blog78.fc2.com/blog-entry-532.html

作家らしい、直観的な感想ですが、実際に法華経を読んでいると確かに言わんとしている事は分かります。

 

実際、釈迦一人が説いた教えも最初は文字ではなく口承で伝わっており、滅後に経典として編纂されていくわけですから、数多の経典、宗派が乱立する事は無理もない事です。

日蓮宗自体も多くの分派ができ、それぞれ独自の日蓮像、法華経観を持って宣教していった経緯は学会の方々もご存知のはずです。

一人立つ精神」を重んじるのであれば、尚の事、「自分にはこうとしか読めない」という良い意味での素直さを持つべきではないでしょうか。

 

日蓮自身も法華経を無批判に読んでいたわけではありません。

昨日紹介した安楽行品第十四では、「旃陀羅」等の最下層の人々と接触を控えることを戒律の一つとしていますが、日蓮は遺文の中でご自身が「旃陀羅が子」であることを主張しています。

日蓮法華経を最も優れた経典として当然重んじていましたが、仏教本来の平等の精神に反すると感じた箇所に関しては、「最下層の出身であることを誇りとすべきである」と、独自の解釈をたてているわけです。

 

このように、日蓮ですら、盲目的に法華経の全てを受け入れてはいません。

もし「日蓮仏法」を信仰するというのであれば、まず日蓮の主体的かつ批判的な読み方と姿勢から学ぶ必要があると思います。

全否定でも全肯定でもなく、批判的に読み、自身の思想の骨肉としていく。まさに「剣豪の如き修行」を実践していく中でこそ、現代における釈尊法華経日蓮の新しい価値を生み出していけるのではないでしょうか。

締めの言葉が若干創価節ですが笑、少なくとも私はそのように学んでいきたいと思っています。

「主体的に読む」ということー解釈する勇気

こんにちは(´・Д・)」

どうも天気が不安定ですねー。

夜はまだ寒いのでコタツ使い続けてます。_(:3」z)_

 

昨日も触れたことですが、法華経といえど、人間が書いたものであって、完全無欠というわけにはいきません。

当たり前のことなんですが、信仰する立場になると、素朴な疑問も「不信心」と捉えてしまうことがよくあります。

こと創価学会の信仰においては、「師の仰せのままに」「御書根本に」ということが強調されますから、どうしても冷静にテキストを読むということが難しくなっています。

法華経に対しても、「釈迦が最後に説いた教え」、つまり釈迦の直説として捉えている会員がほとんどです。

 

そもそも大乗仏典自体が釈迦の直説でないという「大乗非仏説」を学会で知る人は、一部の教学に詳しい方々に限られると思います。

もちろん、非仏説といっても、釈迦の教えの捉え直しを図ったのが大乗仏教ですし、数え切れない人々に影響を与えてきたわけですから、「新しい仏教」として肯定することは可能です。

この点に関しては、私がいつもお世話になっている『気楽に語ろう☆創価学会非活のブログ☆』様の記事に詳しいので、紹介させていただきます。

「大乗非仏説と大乗仏教運動について」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/11/06/113219

 

私は大乗仏教権威主義化した仏教ルネサンス、革新運動として捉えておりますので、大乗非仏説を支持するわけではありませんが、やはり釈迦が直接説いたものではないという認識は必要であると思います。

そうでないと、昨日紹介したような、法華経に説かれる「現世利益」的発想が、教団の論理の産物であるという点を受け入れられなくなってしまいます。

 

また、多くの法華経の研究者が認める点の一つに、法華経には後世に加筆された箇所が見られるという事実があります。

代表的なのは提婆達多品第十二です。

根拠としてはまず話の流れがここに来て唐突な展開になっていることが挙げられます。

それまで釈迦滅後の弘教を誰が担うかという話をしていながら、いきなり提婆達多と龍女の成仏の話が出てきます。

また、文献学的な観点でも、現存する原点や翻訳で食い違いが指摘されています。

例えば、ケルン・南条本(サンスクリット原典)や竺法護訳では、提婆達多品に当たる部分が見宝塔品第十一の後半に収録されています。

一方、鳩摩羅什訳はどうかというと、当初は含まれていなく、後に追加されていることが分かっています。

また、サンスクリットの写本においても、提婆達多品に該当する箇所が見当たらないものがあります。

以上のことから、提婆達多品は後世の追加であると考えられています。

橋爪大三郎・植木雅敏『ほんとうの法華経ちくま新書、2015年、251頁)

 

他にも、法華経の全体の主張から見て違和感を感じざるを得ない箇所があります。

例えば、安楽行品第十四では、「法華経の戒律」ともとれる記述があります。

ここでは「四つの在り方(四方)」なる教えが展開され、その一つ目に菩薩の「善い行ない(行処)」と「適切な交際範囲(親近処)」の二つが挙げられています。

特に後者の「適切な交際範囲」では、「近づいて親しく交わってはならない人々」を規定し、国王、王子、大臣といった権力者、そしてチャンダーラ(旃陀羅)、肉屋、漁師、屠殺者といった人々を挙げています。

これは、修行者の堕落を防ぐ意味合いがあるという解釈もありますが、権力者ならまだしも、被差別民である旃陀羅をも避けるべきだというのは、法華経の平等の精神からいって違和感を禁じ得ません。

事実、中国の天台大師智顗や嘉祥大師吉蔵、日本の日蓮は、この安楽行品に対して、やや擁護するような形で解釈しています。

中には、「女性のために法を説き示す時は、その家に一人で入るべきではないし、またニヤニヤと笑うようなことがあってもならない」といった非常に具体的な指示も書かれています。

提婆達多品で、龍女がわざわざ男の姿に変化して(変成男子)成仏してみせたという箇所もそうですが、法華経にはその革新的な内容故、一般社会からの非難を意識していると思われる箇所が散見されます。

安楽行品が修行の律を強調しているのも、世間体に気を遣っている教団の論理というものが背後にあるとされています。

(前掲書、272-278頁要旨)

 

以上のような点から、「諸経の王」などと言われる法華経といえど、後世の追加や矛盾する論調など、違和感を感じる面があることが分かります。

日蓮もそういった違和感を感じながら、法華経の内容であってもきちんと取捨選択し、エッセンスを自分なりに解釈しようと試みています。

ましてや現代においては、法華経成立の時代とは少なくとも2000年近くの隔たりがあるわけで、そうした主体的な読み方をしていかないと、却って法華経の価値を貶めてしまうのではないでしょうか。

一人一人の実存をかけた勇気ある解釈が必要であると感じています。

 

 

法華経の「現世利益」について

どーもーゆる活でございまーす*(^o^)/*

忙しさ&お腹下し気味で更新ペース落ちてます_(:3」z)_

申し訳ございませんm(_ _)m 

 

さて、皆さんもご存知かと思いますが、ついにあのトランプ政権がシリアへのミサイル攻撃を断行しましたね。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170407-00000037-reut-asia

これに対しては安倍首相が大統領の決意を支持すると表明しました。

首相の表明の是非はともかく、平和主義を掲げる公明党、そして支持母体の創価学会からは、今回の軍事行動に関する具体的な声明は出ていません。

井上幹事長は「これから状況を見定めて対応したい」とし、明言を避けました。

http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASFS07H0O_X00C17A4EAF000/

もちろん連立政権ですから、不用意な発言で安倍自民との対立と受け止められると都合が悪いという政治サイドの論理は分からないでもありません。

ただ、支持母体の創価学会宗教法人なんですから、人道的な見地から何かしら発言したっていいと思いますけどね。

とはいえ、今後公明が米国の軍事行動を支持する表明を出したら、今度は公明と学会の対立と受け止められるから、それもできないのでしょうね。

まぁ昨日の今日で声明出せというつもりはありませんが、学会の方は恐らく沈黙すると予想します。

政治に遠慮して自由に発言もできない創価学会の平和主義って一体何の存在価値があるんでしょうか。

カトリックのフランシスコ・ローマ法王の方がよっぽど平和に貢献していると思いますよ。去年の報道の話になりますが、シリア内戦に対してきちんと表明しています。

https://www.google.co.jp/amp/s/mainichi.jp/articles/20161226/k00/00m/030/039000c.amp

 

シリアでどれだけ民間人が犠牲になろうが、創価学会の活動家は都議選に奔走中でそれどころじゃないという様子です。

本当にこれが信仰者の姿かと思います。

 

昨日もお話ししたことですが、選挙活動においては、社会的な理念だとか、平和への貢献よりも、「功徳」を受ける事が主目的です。

今月の『大白蓮華』(月刊誌)の座談会御書は、『立正安国論』が教材ですが、「だから選挙活動頑張りましょう」という意図が見え見えです。

しかも、しばしば引用される「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」という一節は、政治活動しなさいなんて意味じゃなく、自分の生活の安寧を願うなら世界の平和を祈っていきなさいという風に解釈するのが自然でしょう。

大体、個人が「功徳」を受けるためだとか、「宿命転換」するためだとかって、そんなの「一身の安堵」の域を出ていないじゃありませんか。

世界平和なんかよりも個人の功徳の為に「都議選の勝利」ばかりを祈っている人々が、「立正安国」と宣うなど片腹痛いですよ。

「世界一の哲学」を標榜している割に本当に視野が狭いと感じています。

 

ただ私は、こうした創価学会という組織の問題も、池田大作氏に至る三代に渡る会長の指導性、日蓮正宗の教学、日蓮の思想、さらには法華経にまで遡って公平に見ていかないと、問題の半分も見えてこないと思います。

法華経から日蓮日蓮正宗、そして創価学会に至るまで、強烈に影響を及ぼしている思想、その一つが「現世利益」です。

特に創価学会の「功徳」論というのは、この「現世利益」という発想と深く結びついています。

法華経独特の「現世利益」観は、一説によれば強烈な「経典信仰」が関係しているとされます。

法華経の前半では「仏塔供養」の大切さに言及していますが、後半では「法華経』自体を崇め奉る」ことを重視しています。

法華経こそが釈迦のといた最高の教えである」とする為には、法華経の絶対性を強調した方が布教しやすいという、かなり政治的な理由があったとされています。

逆に、経典に絶大な功徳があるとしてしまったがために、大乗仏教の重要な概念である「」という考え方を飛び越えて、あらゆる問題を解決する万能薬であることが強調されてしまいました。

だからこそ、法華経に帰依すれば、病気も治り経済苦も克服できるといった現世利益的な発想になっていくわけですね。

佐々木閑『集中講義 大乗仏教』、NHK出版、2017年、94-96頁)

「薬の効能ばかりがたくさん書いてあって不思議なお経だ」と評されているのも無理からぬことです。

 

もちろん現世利益的な面だけを見て法華経を否定しまうのは極論です。

むしろその面を強烈に押し出してしまっている創価学会の方が問題です。

しかし、「選挙をやると功徳が出る」といった「現証」ばかりを強調し、その「現証」を持って「絶対正義」としてしまう今日の創価学会の在り方は、やはり法華経自体にも限界があるという事を示唆しているように思えてならないのです。

法華経にしろ、日蓮にしろ、三代会長にしろ、そうやって様々な人々が説いた教えを「ありのままに見る」(如実知見)努力をしていかない限り、仏法は進化するどころか加速度的に退化していく事でしょう。

また、そうして新しい「価値」を弛みなく「創造」しようという営みを仏法の精神と位置付けていくなら、「創価」という言葉にも全く別の意義を見出していくことができるのではないでしょうか。

(少なくとも「勝利」だとか「正義」といった言葉とは違った意味でね笑)

「自他ともの不幸」: 選挙活動家の深層心理

こんにちは*(^o^)/*

昨日はブログをお休みさせていただきましたm(._.)m

ようやくお天気で暖かくなってまいりましたが、夜は強風で寒いこと寒いこと!

 

そんな中創価学会の会員さんは今回の都議選に向けて健気に動いておられます。

「ゆる活」の私は、忙しさを言い訳に、学会の動きを観察する程度ですが、バリ活の方々から口々に聞こえてくるのは「今回は厳しい!」という言葉。

小池百合子都知事主催の都民ファーストの会の勢いがすごく、自公で争わなければいけないとかで、戦々恐々としてる模様です。

ただね、いくら政治に関心持ってるって言ったって、モチベが「選挙活動やると功徳がでる。自分の願いを叶えられる」、ですからシラケますよ。

ホントは政治になんか関心持ってないんです。政策についての意見なんか持ち合わせていません。あっても口に出しません。

 

学会員以外の都民の方々からすれば、個人の願いとやらを叶えるために、都民の生活を左右する選挙にしゃしゃり出て来ないで欲しいですよね。

それも都民でもない学会員が功徳を求めて東京に押し寄せて来るわけです。

変な例えですけどゴジラみたいなもんですよ。

「なんでまたこっち(東京)に来るんだ?!」ってね。

あ、わからない方は『シン・ゴジラ』のブルーレイ&DVD出ましたので観てください笑

 

ともかく、「逞しき楽観主義者」であるはずの学会員の方々でも、重苦しい表情で「厳しい」なんて言葉が出るんですから、それだけ大変なのはわかります。

ただですね、苦しい苦しい言ってる様子からもわかるように本当に苦しいだけなんです。

戦うことが幸福」って本気で言っているんですか?

ちなみに今日のツイッターでこんなツイートを見つけました。

先日、ある投書があった。それは「私たちは一生懸命、選挙の支援活動をしている。候補者の家族自体が、もっと真剣にやってもらいたい」と。
正論であるから、一言、言っておきたい。本来、支援活動については、学会は、あくまでも自由である。

 ツイートされた方の後半の部分は確かに正論なんですが、私が着目したのは前半の方です。

「本来、支援活動については、学会は、あくまでも自由である」という正論は、学会幹部が対外的にそう発言していますから、投書をされた方も分かっているはずです。

しかし、にもかかわらず上記のような事を言うのは、本人も意識していない心理が働いていると考えられます。

すなわち、「私たちは選挙のために、これだけ時間とお金を犠牲にしている。あなた達も同じ目に遭ってくれなければ、不公平だ」という心理です。

 

恐らく活動家の多くは「そんな事はない!我々は使命感でやっている!」と否定するでしょう。

しかし、「功徳」がもらえて、しかもそれ以前に「戦うことが幸福」なら、その代償として時間やお金を犠牲にしたっていいじゃないですか。

そんな不満たらしく言う時点で、本当は「功徳」とか「幸福」とか、信じていないんじゃないですか?

私が思うに、「選挙活動をやると功徳が出る」と言う言葉には学会員の本音が表れています。

要するに、「選挙活動なんてやりたくない。やりたくないことに時間もお金も費やす自分は不幸だ。だから功徳が出るなら我慢できる。」ということです。

 

しかし、選挙の争いが激しく、活動家も少なくなって来ると、一人一人の負担はより重くなっていきます。

そうなると「自分が不幸だから、相手も不幸じゃなきゃ気が済まない」というごく人間的な感情を抱いてしまうのです。

 

別に私は学会員の方々を見下したいわけじゃありません。

例えば、職場でだって、「自分はこんなに一生懸命に働いて、毎日サービス残業してるのに、なんで他の人達は定時で帰っちゃうんだろう。あの人達にも真面目にやってもらいたい」という気持ちを抱く事はあるでしょう。

私にだってあります。

ただ学会員の場合は本当に無償労働ですから、余計に不満がたまりやすいのです。

今の学会員の方々が言っている「自他ともの幸福」は、実情は「自他ともの不幸」になっています。

 

これは、キリスト教共産主義の世界でも、実際似たような事が言われています。

自分たちが不幸なものだから、相手にも「罪深いですよ」「搾取されてますよ」と信じさせて不幸に巻き込もうとするのです

彼らの深層心理にあるのは、恵まれて楽しく生きている人々への「嫉妬」です。

地球の裏側まで行って征服しようとするのです。

それは彼らの嫉妬の根深さを端的にしめしています。

ここらへんの詳しいところは、以前から紹介している岸田秀氏の『一神教vs多神教』(朝日文庫)に書かれていますので、是非読んでみてください。

創価学会員の行動原理もよ〜く分かる本ですので何度でも薦めます笑

 

ともかく、表面的な言葉でなく、その言葉を発する人の心情を汲み取ろうとすることで、見えてくるものがあります。

よく学会員は敵対する人に対して、「あの人達は私たちに怨嫉しているのよ」と言いますが、本当は時間もお金もかかる無償労働をしなくていい人々に怨嫉しているのは学会員の方です

おまけに「功徳がもらえる」「使命を果たしている」という優越感で自分を誤魔化しているのが現状です。

 

本当に、学会員である自分自身がこんなこと書いてると遣る瀬無い気持ちになりますが、自分自身が体験し、同じ事を多くの学会員の方々にも発見した事実だから仕方ありません。

そして、それを認めない限り、今の創価学会の政治参加の実情をありのままに見ることはできないと思います。

「オーウェリアン」化する創価学会

いつもご愛読いただきありがとうございます。

 

日本の政治の混迷っぷりは酷いもんですが、創価公明のご乱心ぶりはスケールが違いますね。流石は世界一!を豪語するだけはある。(豪語してるのは学会だけですが)

 

先日、日本会議主催の憲法改正派集会に公明が初参加したというニュースをご存知の方は多いと思います。

http://m.huffpost.com/jp/entry/15697756

当然学会の許可なしに参加はできませんよね。

戦前の日蓮主義者のような右派に変貌していくんでしょうか。

 

学会「創価ルネサンス!!!( ✌︎'ω')✌︎」

日蓮主義者「…呼んだ?( ✌︎'ω')✌︎」

一般人「お前かよ!!!」

個人的にはこんな展開ですよ。

ご乱心通り越してギャグです。

昔は『お笑い創価学会』なんて本が書かれて腹を立てた記憶がありますが、今や「笑えない創価学会」になりました。

 

このままじゃ現代に日蓮仏法……じゃなくて日蓮主義を蘇らせた団体として歴史に名を残しますよ。あれでも未来は「創価学会仏」として名を残すんでしたっけ?

言っちゃ悪いけどそれもギャグですよ。

威音王という2万億の同名の仏が順番に主宰し、衆生を教化してきたという「威音王仏」が由来だと言いますが、「同名の仏」がたくさんいたってだけで、「組織が仏」なんてこじつけもいいところです。

マジメな活動家の方は「違う違う、私達の使命感を感じ表しているんだ!」なんて言いそうですが、だったら「地涌の菩薩」でいいじゃないですか。

 

第一、この会則自体突拍子も無いんですよ。

今までそんなに強調して言ってた節ありましたっけ?

そんなものを会則にまでぶち上げるメリットって何ですか?

安保法案やその他の政策で組織や公明に批判的な会員が急速に増えてきたこの時期に、この会則を入れたのは偶然ですか?

 

ツイッターでのやり取りでも、組織に刃向かう人間は「創価学会仏」の敵だから「仏敵」であるというご意見がありました。

ホントに、本尊論議や日蓮本仏論と言った教義の面ではブレッブレなのに、そういうところは一貫させようとするんですよねー笑

 

しかも、「創価学会は仏意仏勅の団体だ。だから仏なんだ!」「創価学会は仏だぞ!仏意仏勅なんだから言うこときけ!」というトートロジー(循環論法)のオマケつき笑

 

本当にギャグみたいな主張で、全体主義化を進めています。こういうのを「笑顔のファシズム」って言うんですかね。

(あ、でも言われてみると聖教新聞の写真に写る会員さん皆んな笑顔ですね……流石に怒られるか笑)

 

昨日はジョージ・オーウェルの『一九八四年』について軽く触れましたが、本当にオーウェリアンな世界になってきましたね学会は。

小説の中でオーウェルは、「ビッグ・ブラザー」率いる党を次のように描いています。

 

党の掲げる理想は何やらひどく大げさで、恐ろしげで目が眩むようなものー鋼鉄とコンクリート、怪物じみた機械とぞっとするような武器であふれた世界であり、兵士と狂信者が完璧なる一致団結のもとに行進し、誰もが同じ思想を持ち、同じスローガンを叫び、絶えず働き、戦い、勝利し、迫害する国家であり、三億の人間が同じ一つの顔を持つことなのである。(ハヤカワepi文庫、2012年、115頁)

 

ちょっと言葉を変えればほとんど今の組織と変わりません。

さながら信濃町本部はビッグ・ブラザーですかね。

もうちょっと引用しますのでお付き合いください。

 

最終的に、党は二足す二は五であると発表し、こちらもそれを信じなくてはならなくなるだろう。遅かれ早かれ、そうした主張がなされるのは避けがたい。党というものの立場の必然的要請がそれを要求するのだ。経験の妥当性ばかりか外部の現実の存在そのものまで、党の哲学によって暗黙のうちに否定されているではないか。異端のなかの異端とは常識に他ならない。

(中略)自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。(前掲書、124-125頁)

 

あらゆる自由の中で、言論の自由が根本だというのは興味深い。

確かに言論の自由なくして他の自由を擁護することもできませんね。

ましてや思考まで縛られるわけにはいきません。

 

言論の自由への制限に拍車がかかっている昨今ですが、考えることをやめてはいけないし、発言が制限されても、発言できる場では発言をやめないことが大事ではないでしょうか。