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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

「破僧の定義変更」: 内ゲバを越えて

気がついたらブログアクセス3000を超えておりました(; ̄O ̄)
心から御礼申し上げます。
 
思想・教義の検証ということで、最近は様々な文献を読み漁っています。
昨日もオルテガのテキストを紹介したように、仏教関係であるかどうかを問わず、古今東西の文献を参考にしています。
意見の多様性を認めない傾向は、仏教の世界にも当然あるわけで、それを理解する上でも西洋の哲学に学ぶ点は多いですね。
ちなみにこの「意見の多様性」という問題ですが、すでに釈迦の滅後に直面しています。
いわゆる「部派仏教」という存在です。
これは「大乗仏教」の出現よりもずっと前の現象です。
 
「部派」の成立といっても、「分裂」と解するのは早計であり、「〇〇部」「××部」という「グループ名」に過ぎず、釈迦の教えの解釈に違いはあれど、互いに認め合って共存していました。
一つの共同体の中に、様々な派閥があっただけと言えます。まぁ派閥イコール分裂だ!とされる方は拒絶するでしょうね。
とはいえ、釈迦は一人でも、弟子が百人いれば百通りの解釈、「百通りの釈迦の教え」が生まれることは避けられません。
当然のことです。
 
逆にそれだけ多様化していけば部派同士で論争となり、結果としては完全な分裂に至りそうなものですが、この時点ではそうなっていません。
この現象は、アショーカ王の時代に行われた教義変更が理由だとされています。事実、「部派仏教」と呼ばれるものが成立した時代は、アショーカ王の統治下にありました。
仏教学者の佐々木閑氏によれば、多様な解釈を認めながら、仲間割れを起こすことのない様、「破僧の定義変更」という教義変更が行われたのだそうです(以下、『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』NHK出版、2017年、22-24頁を参照)。
破僧」は「破和合僧」の略で、「仏教の僧団組織であるサンガを分裂させる行為」を指します。
具体的には独自の解釈を用いて派閥を形成し、新たな教団として独立する行為が挙げられます。
釈迦の在世の時点で、「破僧」を画策したものを厳罰に処し、謹慎処分を下すことを定めていました。
 
しかし、先ほど述べた様に解釈の多様化自体が避けられぬ以上、厳格に「破僧」を罰しようとすると、「お前たちのやっていることは破僧だ」という非難合戦に陥り、収拾がつかなくなってしまいます。
際限なき内ゲバという現実に、当時の人々も直面していたのですね。
そこで、仮に釈迦の教えに対する解釈の違いが生じても、居住を共にし、集会や会議に参加していれば、「破僧」とは認めないというルール変更をすることになりました。
 
大衆部(摩訶僧祇部)という部派仏教時代の一グループの律に『摩訶僧祇律』という書物には、次の様な趣旨の事が記されています。
サンガ内に、もしお釈迦様とは違う解釈を主張する者が現れて悶着が起こったとしても、同じところに共住し、集団儀式をともに行っているかぎりは破僧ではない。別々に儀式を行うようになったら破僧である
分裂を防ぐための「破僧」という概念が、互いを糾弾するために利用され、凄惨な内ゲバを繰り広げてしまう様では本末転倒です。
だからこそ、解釈の多様化自体は容認するという苦渋の決断に至ったわけです。
 
今の創価学会でも、内ゲバが起きていますね。
日蓮や三代の会長の思想の解釈をめぐって「破和合僧だ!」と言い争う。
学会の場合は「師敵対だ!」という言い方もしていますが、多様な解釈を認めない点は同じです。
確かに、多様な解釈を認めると、際限なき改変が加えられ、本来の教えが著しく歪められてしまうという懸念があることも理解できます。
教えを歪めてはならない、しかしそれでも解釈が避けられないとなれば、本来の教えとは何かという緊張感を持ちながら、学びと思索を深めていくことが必要であると考えます。
そしてその勇気と責任感に基づく解釈がなければ、後の大乗仏教の興隆や、法華経、天台、日蓮による展開もなかったはずです。
「大聖人の仏法を汚すな!」「師匠を否定するのか!」と教条的に否定している様では、大乗仏教はおろか部派仏教以前に逆行していると言わざるを得ないでしょう。

「大衆の反逆」: 閉鎖性、支配欲、そして憎悪。

ごぶさたしてます_φ( ̄ー ̄ )

プライベートで忙しくしておりました。

それにしても春らしくなったと思った途端、暖かいどころか暑くなってきましたね。

 

昨日はツイッターで功徳罰論のおかしさについて述べたところ、ある創価学会員の方から論争をふっかけられました。

https://mobile.twitter.com/yurukatsu21/status/853609422614020097

途中までは冷静に話ができる方のようですが、最後までご自身の考えでお答えにならずに、「牧口先生の価値論を学ばれたらいい」と、相手の勉強不足で結論づけようとされています。

説得力が全くありません。

それを指摘しても「悩乱」「狂っている」「邪説」「邪魔」「言葉遊び」と相手を罵倒して否定することしかできない。

で、この方の根本にあるのはやはり「師弟不二」論なんですね。

説得する気はもともとないのでしょう。

ご自身が解釈する「師匠の指導」に依らなければ、現実を認識できない。

そしてそれに当てはまらない言説は全否定し駆逐してしまえばいい。

創価の名をカタるな」と仰いますが、この方の言動こそ、私が当ブログで一番最初に申し上げた師弟不二」というイデオロギーの影響を表しています。

 

20世紀を代表するスペインの哲学者オルテガは、「自分よりすぐれた審判をいっさい認めない閉鎖的な人間」を「大衆」と名付けています(『大衆の反逆』白水社、1985年、35頁)。上記の方にはこの「大衆」の特徴がよく表れています。「世界一の哲学」を説く割には驚くほど「閉鎖的」です。そして言葉遣いも上から目線です。

 

オルテガのいう「大衆」とは、エリート主義的な意味ではなく、ある精神的傾向の事を指しています。

その一つがイデオロギーを振りかざすデマゴギーです。

彼は言います。

デマゴギーの本質は彼の精神のなかにある。つまり、自分があやつる思想に対するその無責任な態度にあるのだが、その思想とて彼自身の創造になるものではなく、真の創造者からの受け売りなのである。(前掲書、38頁)

つまり、自分で思想を吟味する事はなく、紋切り型の言葉で相手に押し付けようとするのですね。極めて無責任です。

 

インドの詩人タゴールは、釈迦のドグマを徹底して排除する姿勢を高く評価しています。

「師匠の指導」を振りかざす言説は、「師匠の権威」を借りて自己の正当化を図ろうとする振る舞いであり、「人間主義」とは対極の「権威主義」的発想でありドグマなのです。

 

更に有名なオルテガの洞察を紹介します。長い引用で恐縮ですがお付き合い下さい。

サンディカリズムファシズムという見せかけのもとに、ヨーロッパにおいては初めて、相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えている人間のタイプがあらわれたのだ。(中略)平均人は自分のなかに「思想」を見いだすが、思想を形成する力には欠けている。(中略) 彼らの「思想」なるものは実際には思想ではなく、音楽つき恋愛詩のように、言葉をまとった欲望にほかならないのである。(前掲書、118-119頁)

説得しようという気概もなく、相手に自分の主張を押し付ける人々に本当の思想は存在しません。「言葉をまとった欲望」とは、相手を自分のイデオロギーのもとに屈服させ、自己の正当化を図ろうとする「支配欲」と「承認欲求」を意味します。

また、大衆とは「大衆でない者を徹底的に憎んでいる」のであり(前掲書、122頁)、彼らの屈折した正義感は憎悪と表裏一体なのです。

 

文明とは、何よりもまず共存への意志である。人は他人を考慮しない度合いに応じて未開であり、野蛮である。(前掲書、121頁)

「戦争反対」を主張していても、己が正義に固執するあまり、他者を悪魔化して排除しようとする、皮肉にもその閉鎖性こそが戦争を引き起こすのです。

以前の私も独善的な正義に固執するあまり、相手を傷つけたことがあるからよく分かります。

 

私が「功徳罰論」に疑義を呈したのは、一つには、信仰の本質が功徳が罰かで語られているために、自己を真摯に見つめる「観心」の姿勢が、今ほど欠落している時はないと感じているからです。

自己に対する内省的思索と、思想のルーツの冷静な検証をしていかない限り、いくら「〇〇反対!」といって旗を振っていても、本質的な変革など望むべくもないでしょう。

「世界と一体化する」という発想:全体主義と世界大戦

こんにちは(´・ω・)

あっという間に週末ですね(汗)

 

さて、昨日お話しした日蓮主義には、日蓮の国家救済のヴィジョンに加え、「自己と世界が一体化する」という発想があります。

この考え方を強く持っていた代表的な日蓮主義者が高山樗牛石原莞爾です。

 

まず、評論家として知られる高山樗牛ですが、彼が初めに傾倒したのは文学の世界でした。

青年時代、立身出世を願いながら、世俗的な欲望に囚われている自分に嫌悪感を覚えていた樗牛にとって、文学は自然との一体化という視点を与え、個人の苦悩を解放してくれる存在だったのです。

そして、大学時代にはハーバート・スペンサー社会進化論に感化されます。

スペンサーの理論は、社会が理想的な世界に向かって進化していくという考え方であり、それは樗牛が言う「自然との一体化」を通して可能であると結論します。

こういう発想を抱いていた彼が、大学卒業後に田中智学の日蓮主義と出会うわけですね。

法華経によって「自己と世界の一体化」を果たし、法華経の理想のもとに世界を統一することができると彼は考えました。

 

当然これは、田中智学の「八紘一宇」という理想世界と親和性の高いものであり、その実現に向けて行動を起こしたのが石原莞爾でした。

日本陸軍のエリートである彼も、樗牛と同じく苦悩の青春を過ごした一人であり、田中智学の「国柱会」に入会し、智学や樗牛の著作に傾倒していきました。

新婚だった彼には、妻と精神的に「合体」したいという強烈な願望がありました。

漢口に単身赴任している時に妻に送った手紙には、今述べたような彼女との「完全なる結合」への願望や、国柱への入会を勧める文言が書かれていました。

拒み続けているにも関わらず、身内から宗教団体への入会を執拗に迫られるのがどんなに面倒なことか、学会員である私にもよく分かります。

しかし、これは莞爾の異常な精神性として片付けてよい問題ではなく、妻との精神的な結合の先には、「仏と一体化し、世界と一体化」するという発展的なビジョンがあります。

自分がまず妻と一体化できれば、人類も同じように一体化できるはずと、「自己の解放」が「世界の解放」につながっていくわけですね。

 

よく軍事行動に積極的なのが現実主義で、軍事行動に消極的ないし否定的なのが理想主義という見方がされがちですが、実際のところ理想主義にも好戦的なイデオロギーはあります。

代表的なのはアメリカの新保守主義、いわゆる「ネオコン」です。

「保守」という名がつくために誤解されがちですが、アメリカの民主政治と市場経済を軍事力を使って世に広めることで理想世界が実現するという点で、好戦的な理想主義に分類できます。イラク戦争などはその典型ですね。

日蓮主義も「八紘一宇」の理想のもと、「世界最終戦争」を経て世界統一を果たすことを目指していますね。

 

理想主義の問題点は、その普遍主義的性格ゆえに、世界を一色に塗りかえようという発想に行き着く点にあります。

それは「全ての人々が自分たちと同じ考え方をするようになれば、理想世界は実現する」という固い信念に裏打ちされています。

9.11のテロ事件が起きた時、アメリカのネオコン達は何を考えたか。

「何故アメリカを憎む人達がいるのだろう、何故アメリカを攻撃しようとするのだろう。それは、彼らがアメリカ人でないからだ。だから、彼らもアメリカの民主政治と市場経済に改宗してアメリカと一体化してしまえばいい。」

そして彼らがそれを達成する手段となったのが、「global war on terror (テロとの世界戦争)」です。

日蓮主義者も同じです。

単に世界を軍事的に支配するのではなくて、国民を、人類そのものを日蓮主義に改宗させなければならないと考える。

日蓮主義者の場合は、天皇末法に出現する「上行菩薩」や「転輪聖王」、「賢王」と同一視され、日蓮主義に改宗させる事を目論んでいました。

 

このように、ユートピア主義的理想主義は、世界統一に思想の統一をも必要とする点で全体主義に結びつく危険性があります。

平和主義を標榜する創価学会といえど、根底には「全ての人々が自分たちと同じ考え方をするようになれば、理想世界は実現する」という発想がやはり見受けられます。

「地球民族主義」といっても、未だに組織の「拡大」を目標にしている時点で、創価学会に入信する人が世界中に増える事が前提になっているのです。

これは、石原莞爾が妻と一体化するためには、妻が国柱会に入会することを前提にしていた事と重なります。

創価学会という組織内においても、意見の多様性を認めない全体主義的傾向が強まっている事が問題になっていますが、これも、他者が自分たちと同じ考え方をしない限り一体化できないという信念と密接にリンクしています。

 

以上の点から、一つの理想のもとに、世界と一体化しようというユートピア主義的理想主義は、全体主義と世界大戦に発展する危険性があり、日蓮思想もこうした問題からは決して自由ではないのです。

日本型グローバリズム:日蓮主義と八紘一宇

いつもご愛読いただきありがとうございます

ヾ(๑╹◡╹)ノ"

 

さて、創価学会の思想的問題点の多くは、日蓮系宗派全体に関わる課題でもあります。

私がいつも参考にさせていただいている『気楽に語ろう☆創価学会非活のブログ☆』様も、日蓮思想の危険性を指摘されています。

「危険思想になり得る日蓮。」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/04/13/045803

 

学会員の場合、客観的に日蓮思想を検証していくには、まず日蓮を神格化し絶対化してしまう日蓮本仏論から離れなければいけません。

普通は、歴史的な史実をしっかり読んでいけば、日蓮思想の問題点の否定し難い事がよく分かるんですけどね。

無論、日蓮法華経を弘めるために他国を侵略せよなどと主張しているわけではありませんが、上記記事のご指摘にある様に、国家を志向する日蓮思想の傾向が、好戦的なイデオロギーの土壌になってしまうことは否めません。

 

多くの創価学会員は、日蓮を「反権力」「反体制」の人として尊敬している様ですがこれには誤解があります。

神札を受けなかった牧口常三郎初代会長に対しても、国家主義と闘った人物として、日蓮と重ね合わせたいという願望もあるのでしょう。

学者でも同じ様な見方をする人々はいます。

東北大学佐藤弘夫教授も、日蓮を反体制の人物として左翼的に描く学者のお一人です。

しかし、日蓮の国主諫暁の本質は国の指導者を法華経に帰依させ、誤った他宗への信仰を棄てさせることにあります。

普通に考えれば、「体制内の変革」を提言したのであって、政府転覆を目指す様な「反体制」とは大きく性質が異なります。

日蓮は、権力を否定せず、権力を内側から変えていくことを考えていたのだと思います。

 

この傾向は「向王性」とも呼ばれ、体制側に積極的に関わろうとした日蓮の姿勢を端的に示しています。

戸田城聖二代会長が、政界進出の理念に「王仏冥合」論を持ち出したことも自然な成り行きでしょう。

もちろん、後に公明党という一政党を政権に組み込むやり方が、国主諫暁や王仏冥合の理念に符合したものであるとは思いませんが。

 

また、単に国家を志向するというだけでは、「国家主義」にまではいたっても、日蓮主義にみられる「八紘一宇」の様な「超国家主義」にはつながりません。

この点について、宗教学者島薗進氏は、日蓮が「国家救済のヴィジョン」を持っていたことから、日蓮主義者も「国家を超越する力の存在を見ている」と指摘しています。(中島岳志島薗進『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』、集英社新書、2016年、85頁)

要するに、彼には国家を志向しながら、国家を「相対化」する視点がある、という事です。

時の権力者達を「わづかの小島のぬしら」と呼んだという話は有名ですね。(この言葉が書かれている種種御振舞御書は偽書だと主張する方々もいるようですが、日蓮の性格・信条的には納得できる文言だと思います。)

 

田中智学が唱えた「八紘一宇」のスローガンは、中華思想を応用して「世界を一つの家にする」ことを理想としています。

この発想と日蓮の「国家を超える」視点がシンクロしていくわけですね。

日蓮の国家救済のヴィジョンが国体論と一体化し、日本を中心とした世界統一を実現する、これが「八紘一宇」の根底にある考え方となります。日本型グローバリズムですね。

 

現状の公明党が「八紘一宇」的な発想を抱いているとは断言できませんが、2015年には自民党参議院議員三原じゅん子氏が「八紘一宇」を肯定する持論を展開し、物議を呼びました。

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2015/03/post-725.php

しかも、彼女は八紘一宇に、「善意による弱者救済」という価値観を見出しています。

日蓮主義的な「善意」に基づく「国家救済」的な理念の事を示しているのでしょう。

八紘一宇の理念は未だ途絶えてはいず、むしろ日本会議の方から積極的に発信されるかもしれません。

 

こうした点から、日蓮の純粋な「超国家的発想」は、やはり危険なユートピア主義につながる可能性を秘めていると言わざるを得ません。

創価学会の様に、安易に「日蓮の平和思想」として称揚する事には、やはり違和感を禁じ得ないと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

「改革幻想」に潜む保守性

こんにちは(๑・̑◡・̑๑)

 

昨日はテレビやツイッター、そして職場でも、アメリカのユナイテッド航空のニュースが話題になっていましたね。

先日のシリア爆撃の件といい、ショッキングなニュースが続いています。

様々な情報が飛び交う世の中ですが、激動の時代にあって、情報だけでなく、今を生き抜くための価値観を切に求めている人々も多くいるように見えます。

 

アメリカではトランプ政権誕生以降、全体主義的管理社会を描いたジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読む人々が急増していますし、ちょっと前までは、資本主義経済の実態を分析したトマ・ピケティの『21世紀の資本論』が世界的なベストセラーになりましたよね。

混迷深まる乱世をどう捉えるか、問題意識が高ければ高いほど、古今東西のテキストからヒントを得ようという声が高まっているように思います。

 

かくいう私も、そうしたテキストを紐解きながら、思索を続けている身です。

当ブログでは、岸田秀山本七平司馬遼太郎ニーチェチョムスキーオーウェルといった思想家を紹介してきました。

元々本を読むのは好きなのですが、「創価の哲学は世界一!!」を信じ切ってた頃とは、読み方が変わっています。

それまでは古今東西の思想哲学も仏法の一部なのだから、創価の思想哲学を持っているからこそ理解できるという姿勢でした。

単に創価学会を正当化するために読んでるだけじゃないかと言われてしまいますよね。

でも、池田名誉会長のスピーチやら対談集やらで、ゲーテやルソーなどの文豪や思想家の言葉が引用されていると、「この仏法には普遍性がある」と感じたり、「今自分もトルストイを読んでいた」などと純粋に嬉しく思ったりしていたのです。

それはそれで読書にのめり込んだ私の体験なのですが、今度は聖教新聞や学会書籍に段々飽きてしまいました。

先日もお話ししましたが、学会のテキストというのは正解ばかり」なので同じことの蒸し返しがほとんどです。

「正論ばかり」で意外性も新鮮味も感じられなくなっていました。

目新しいのは引用される偉人の言葉ぐらい。

しかしその引用にしても聖教新聞に掲載されるものは活動に使えそうなものに限定されています。

新聞はほとんどサラッとしか読まず、楽しく読めたのは知的な内容の多いSGI提言と対談集ぐらいでした。

まぁそれも代作の事実が明らかになった時点で、教養のあるメンバーのお話を読んで喜んでいただけなのだと思います。

 

そして創価学会の問題に気づき始めてからようやく分かったのが、「創価の哲学に基けば世界の思想哲学も理解できる」というのがとんだ間違いであったということです。

むしろ逆に、創価学会こそは現代文明、大衆社会の問題を体現してしまっている団体であり、「世界の思想哲学に謙虚に学ぶ」ことで学会の思想的問題点も浮き彫りになるということがよく分かりました。

現に、当ブログで紹介してきたテキストは、創価学会を思想面から客観的に検証していく上で非常に有益です。

組織の運営的問題や、公明党の政策に対する批判などから、創価学会に疑問を抱き始めた方は多いと思いますが、私の場合は、思想的にツッコミを入れたくなる点が多くなってきたことの方が大きかったのです。

 

それは創価学会という社会運動の根底に関わる問題で、改革派と称する方々が主張するような、「公明党と手を切る」だとか、「執行部を退陣させる」だとか、「組織運営を抜本的に改革する」といった事では収拾がつかない事を意味します。

だから、歴代の会長の指導性や、日寛教学、日蓮の思想、法華経の成立過程など、外面的なレジームではなく、内面的なルーツを問題にしていく必要があるのです。

外面的な変革を実行したとしても、「池田先生は絶対」「日蓮大聖人は絶対」「法華経は絶対」という点において保守的ならば、また似たような問題を繰り返すことになります。

 

昨日は「組織的選挙活動は公明党員のみ」とか、「財務部員制度の復活」とか申し上げましたが、それはあくまで対症療法であることを認めます。(でもやったほうがいいと思いますよ笑)

 外面的な変革を否定する必要はありませんが、本来は内面の変革を訴えてきたのが創価学会という運動だったのではないですか?

デモにいったり、署名集めたりすることも否定はしませんが、あたかもそれだけが「声を上げる事」とされ、自分たちの運動に参加しない人々を「勇気がない」などと責めるのは御門違いだと思います。

大体そういう方々に思想的な問題点を指摘しても、聞く耳をもたないどころか、「師匠に反した執行部が悪い!公明が悪い!」と破折精神旺盛に(笑)否定してきます。

 

でも考えてもみてください。今まで散々「反逆者」とやらを追い出してきて、それで創価学会が本質的に良くなりましたか?

「師匠」を振りかざして反逆者を粛清するやり方。信濃町にしたって「清浄な学会を汚されてはならない」という「師匠」の教えを振りかざして査問・除名を遂行しているわけでしょう。

そうやって互いに果てしない闘争を繰り広げる。これが内ゲバですよ。

以前にも指摘しましたが、そういうところが中国共産党と本当によく似ています。

 

じゃあ会員にも問題があるとして、「信心が足りない」とか「題目が足りない」とか言う人までいますが、それも違うと思いますね。

哲学者のカール・ポパーは「マルクス主義者はズルい」と愚痴をこぼしています。

革命に失敗しても、「革命が足りなかったからだ、不十分だったからだ」と言い訳するからだそうです笑

確かにそれでは反省のしようがない。 

「改革幻想」に取り憑かれた人々は、根源的な問いかけをする点において強固に保守的なのです。

 

本当に「勇気」を必要とするのは、「根源的な問いかけ」をする事です。

自分のある面を否定する事にもつながります。

それはとても辛い事です。

しかし、それを避けて信濃町と公明を糾弾し、自分たちと同調しない学会員を叱責して溜飲を下げていても、「創価の変革」にはつながらないと、少なくとも私は申し上げておきます。

選挙活動は「組織の引き締め」?

皆様ご機嫌よう(´・∀・`)

いつもありがとうございます。

ツイッターなどでも当ブログをご紹介いただき、重ねて御礼申し上げます。

 

悪天候で寒い日が続きますね。

寒がりの私は外ではコート・マフラーが手放せませんし、室内では未だにコタツを使い続けてます(。-∀-)

 

この寒い中、相変わらず創価学会の活動家の方々は、選挙に走り回っていらっしゃいますが、よくやるなぁと思います。

でもその行動力、もうちょっと別の事に活かせないのでしょうか笑

王仏冥合」*と言ったって、政治に限った話ではないし、社会貢献活動に従事する人もいれば、教育や文化交流に徹する人もいます。

(*法華経の本門の教えが国家・社会の指導原理となることによって、この世に寂光浄土が実現するという日蓮の教え。)

選挙やりたい人たちだけで公明党員としてやればいいんです。

財務も本当は必要ないですが、やりたい人だけで財務部員制度を復活させた方がいいと思います。

選挙も財務も全学会員に押し付けるから、ついていけない人々が増えてるわけじゃありませんか。

全員参加しなきゃ選挙に勝てない?

学会票がなきゃ議席が取れないなら、「大衆とともに」なんてスローガンは捨ててしまえばいいと思います。

結局大衆の支持なんて受けてないし、不信感を持たれているままです。

名実ともに創価学会の党になれますよ。

 

地元で役職についている方々の苦しそうな表情見ているとこちらまで辛くなります。会員宅を家庭訪問する時なんか、もはや「大衆とともに」だとか「平和の党」だとかいったことは言わなくて、ただ「功徳が出るから、選挙で一緒に願いを叶えましょう」としか言えなくなっています。

それもそのはず、今は理念的なことを言うと、却ってそれとはかけ離れた公明党の現状をツッコまれるわけですから。

「私たちは公明党を支援するために信心しているのではない」

その通りです。

だから「功徳」と結びつけるのでしょう?

 

社会や日本のためになんて本心でやってない。

自分たちが功徳さえ受けられればいい。

それは民主主義をバカにしているのです。

「大衆とともに」「大衆のために」と言いますが、無責任な選挙活動の結果、生活を振り回される「創価学会員以外の国民」の事など考えているのでしょうか。

それで「民衆仏法」ってギャグですか。

 

そもそも「王仏冥合」にせよ、「広宣流布」にせよ、組織の「政界進出の理由」にはなっても、個人の「選挙活動の理由」にはなってません。

実は学会の政界進出を決定した戸田城聖第二代会長も、選挙活動の理由には別のものを挙げていました。

つまり、「選挙になると会員たちの目の色が変わり、学会員の信心を引き締めるために使えるから」であると。(中野潤『創価学会公明党の研究 自公連立政権の内在論理』岩波書店、2016年、31-32頁)

要するに、選挙活動を「組織の引き締め」と「組織の拡大」の好機とする考え方が戸田氏の時代からあったわけです。

そして池田時代では「選挙に勝つことが信心の証し」ということがより強調されていきます。

 

とはいえ、組織の引き締めにはなっても、組織の拡大には現実の数字が追いついていません。

衆議院選挙の得票数にしても、過去最高とされる2005年の898万票をピークに激減しており、2014年では731万票にまで落ち込んでいます。

おまけに会員数が横ばいの中での2000年代前半の増加は、連立を組んだ自民党選挙協力のおかげでした。

821万世帯の学会世帯数を大きく上回る得票数が得られたのは当然の結果でしょう。

その選挙協力の効果も、学会員の高齢化に伴う集票能力の低下と、公明の政策の変化に批判的な支持者の増加によって打ち消されてしまい、2007年参院選以降の得票数の減少につながっています。

(前掲書、60、63頁)

 

選挙活動など、組織の拡大に直結しないどころか、自民党選挙協力がなければ、もっと得票数を下げることになる始末です。

自民党は公明の選挙協力がなければやっていけない」?

ちょっと何言ってるかわかりません。

 

このまま行けば当然得票数はもっと下がり続ける。政権与党に留まるためにはどこまでも自民党に依存していく。

無論都議会のように、自民党でなくても依存できるならくっついていく。

それでも票が足りなきゃ日本会議にも近づいてネトウヨ票も獲得したいというのが本音かもしれませんね。

 

学会の選挙活動もとうとう行くところまで行き着いたという感じです。

これ以上「功徳」をダシにして「引き締め」を計っても、むしろその分だけついて行けない人が文字通り締め出され、選挙活動から離れて行くことでしょう。

「時流信仰」: 日本の宿命と創価学会

ぜんごくの同志の皆様、いらっしゃいますかー!!! ♪───O(≧∇≦)O────♪

……のっけから創価ノリの挨拶ですみません。

時々出る発作ですから、気にしないでください。

でも本当に学会幹部の話し方は一様で、内容もテンプレばっかりなんですよねー。

「お元気な先生・奥様に見守られて」

「〜してまいりたいと思いますが、皆様いかがでこざいましょうかー!(拍手は義務)」

冠婚葬祭のスピーチなみに定型句の多い事。

何か色々考えて話すと、言葉もどんどん変化していくのですが、逆にテンプレばかりでボキャブラリーがいつも同じになるという事は、思想がないという事なんです。

それでよく「生きた宗教」などと言えるものです。

 

しかしこの「思想がない」というのは、創価学会の問題と言いますか、日本という国土と日本人という人々の問題でもあります。

もちろん、共産主義化やキリスト教化しなかったのも、思想やイデオロギーが根付かない気質のおかげだという意見もあります。

私も共感する点はありますが、「自前で体系的イデオロギーをつくったことはない」というのはやはり問題でもあるのです。

 

これは精神分析学者の岸田秀氏と評論家の山本七平氏の対談で知ったことなのですが、日本人は独自の思想を生み出していないどころか、自前の歴史観に基づく歴史書も作っていません。

その原因としては、日本人の精神の根底にある「時流信仰」と呼ぶべきものが挙げられます。

つまり日本人は、歴史というものを「流れ」として見るきらいがあり、それが「時流には逆らえない」という考え方を生み出しているということです。

 

そして、それが「ある国が生まれると天壌無窮、永遠にその国が続くと考える傾向」につながっていきます。

旧約聖書の世界観はこれと対極にあり、「歴代の大帝国を幻想」と捉えています。

大国の興亡を繰り返す彼らの方が、「諸行無常・盛者必衰」を心得ているというわけですね。

これに対し日本は「万世一系」の国柄です。

戦後の体制にしても、永遠に続くのだという信仰があります。

イデオロギー不信」故に、一度「体制」ができてしまうと、それを変えようとはしない。

「永遠に続く」と信じ込む。だから「絶対化」するのです。

(『日本人と「日本病」について』文春学藝ライブラリー、2015年、190-191頁)

非常に強固で保守的な精神性です。

 

私が思想や体系的なイデオロギーが今の創価学会にもないと感じるのは、まさにこの点にあります。

学会員の言う「創価の思想」や「池田哲学」も、もはや思想やイデオロギーではなく、「できあがった体制」でしかないのです。

どちらかと言うと、静的なイメージの強い「イデオロギー」という言葉よりも、動的なイメージのある「思想」という言葉の方を私は好みます。

そして「思想」と言った時には、常に「釈迦や法華経日蓮の現代的な価値とは何であるか」という問い直しがあり、悩みがあり、葛藤があります。

今の学会に溢れかえっているような「正解が与えられた世界」ではありません。

池田名誉会長は、「創価学会は三代で完成した」という勝利宣言をされていますが、残念ながら、悩み考えることをやめた時点で、それは「体制」と化し、「思想」は死ぬのです。

できあがった体制を絶対化し、永遠に続くと信じ込む。

創価学会も、この「時流信仰」ないし「永遠信仰」という日本という国土の宿命を背負った存在だったということです。

創価学会は永遠に勝ち栄えていく」のだから、後は「池田先生の哲学を宣揚すればいい」という発想に行き着きます。

それは時代に即した形で思想を発展させていこうという気概を失った「甘え」です。

皮肉にも「永遠性への確信」が創価学会の生命線を断つことになるのです。

 

現代世界にあっては、多くの国で排外主義やテロが横行し、国家間の争いは激化、環境問題も深刻さを増すばかり。

これだけ複雑すぎる要因が積み重なってカオスな世の中にあって、単一の解決法万能薬なるものがあるはずがありません。

あると信じられるのは、世界を単純化して分かったつもりになっているからです。

創価学会の、特に日本の組織における衰退は、少子化などの影響ではなく、学会が思想的に敗けたということの証明なのだと思います。

現実に悩んでいる人々と、「一緒に悩んでいこう、学んでいこう」という謙虚な姿勢もなく、いつまでも「池田先生の偉大さ」「創価学会の正義」を教えてやろうという態度では、人々を魅きつけていくことなど到底出来ないのではないでしょうか。