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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

教育の功罪(1):個人崇拝

こんにちは(`・∀・´)

昨日はお休みいただきました。

 

ここのところ日蓮系宗派と一神教との類似性について書き連ねていました。ツイッターなどを通じて多くのコメントや共感の声をいただき、似たような問題意識をお持ちの方が多いことがよく分かりました。

 

最近は森友学園や塚本幼稚園のことでマスメディアもSNSも盛り上がっていますね。行政のあり方としては、国有地売却に関わる問題が一番深刻に扱われるべきなのはわかります。

 

ただ個人的には幼稚園内の教育内容に関する話を聞いていると「あいたたた〜笑」と感じる面があります。「安倍首相バンザ〜イ!」とか「安保法制国会通過良かったです!」といった言葉、「ん〜どっかで聞いたことある笑」という印象です。

 

要するに印象が創価の学校に似ているという話なんですけれども笑

創価学園バンザ〜イ!」「池田先生、300の名誉学術称号おめでとうございます!」なんてのはしょっちゅう言ってますよ創価学園は。

 

創価学園では「栄光の日」「情熱の日」「英知の日」という三大行事があります。

http://www.tokyo.soka.ed.jp/senior/life/event.html

 

「情熱の日」や「英知の日」は一般の学校でいう文化祭や創立記念式典に当たります。しかし一つ目の「栄光の日」は他の学校と一線を画す行事で、三大行事の中でもかなり宗教色が濃いものです。

 

もともとは「栄光祭」と呼ばれていて、夏休み前の夏祭りみたいな位置だったんですよね。創立者の池田大作氏を囲ってのお祭りという感じだったんですが、今では「この日を目指し創立者のもと、学園生の一人一人が「何のため」に学園生活を送り、また学ぶのかを事前の対話運動などによって確認しています。行事内容は生活組織等の5者別(寮・下宿・新生会・潮流会・中学)に、工夫をこらして自分たちの決意や思いを歌や演技に託して表現しています。」(サイトより引用)

 

別に独自性のある行事をやることはおかしいことではありませんが、彼らがやるのは創立者のスピーチ集の冊子をテキストにして、ひたすら対話、対話、対話です。はっきり言って強烈な刷り込みですよ。サイトの紹介にある通り歌や演技もありますが、内容は「池田先生と学園生は一体!」「師弟の道を歩み抜くことを誓います!」といったもの。名前が変わったとはいえ「祭り」の要素どこいった笑

 

池田本仏論などと揶揄されると学会員は目くじらを立てますが、仮に「師匠」と呼んでも実質は「絶対的指導者」として崇めているわけです。特に創価学園のノリは凄まじい笑 「最近は池田教化している」なんて嘆く会員もいますが、創価学園は先取りして「池田教」ですよ笑

 

「学園生は純粋ね〜」と学会婦人部は喜びますが、「盲目的」かつ「教条的」の間違いです。

 

例の学会本部元職員の3名が執行部に反旗を翻したでしょう。彼らのうち2名は学園出身者です。まだ知らない方は彼らの熱すぎる笑ブログを読んでみてください。

http://harunokoime20150831.blog.fc2.com

 

ね、素晴らしいでしょ?笑 

極端な例だろうと思うかもしれませんが、学園で創立精神を叩き込まれた人間ほどこんな感じで、筋金入りの池田教徒になるんです。

 

池田氏の神格化を強める発言でホサれたM木さんも学園生ですね。

 

こういうの見てると、印象が中国共産党と被ります。池田氏毛沢東主席に例えると、池田教徒はさしずめ紅衛兵でしょうか。池田氏の指導集を持ち歩く姿は、毛沢東語録を携帯していた紅衛兵達と重なります。両方とも青年で純粋ですね。

 

例の3名は「池田先生の心が通う創価を取り戻す」ため変革を唱えていますが、これも紅衛兵毛沢東の権威を回復しようと文化大革命で台頭したのと似ています。

 

創価教育」を唱えた創価学会初代会長の牧口常三郎氏が、実際の創価教育機関を見て「これが創価教育だ」と思うでしょうか。

 

ある学園の知り合いにこんなことを言われました。「あなたは自分の考えを持っているね」と。それってそんなすごいことですか?じゃああなたは誰の考えを持って生きているのですか?

 

キツイ言い方になりますが、「羊千匹よりも獅子一匹たれ」と叫んだ牧口氏との思いとは裏腹に、「池田先生の指導」という枠を越えて思考できない、羊の様な存在を量産してしまったのではないでしょうか。

 

一体学校教育というのは人間を賢くするためにあるのか、愚かにしてしまうのかどちらでしょう?

 

少なくとも学校の教育が洗脳のツールになる危険性は否定できないでしょう。