千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

教育の功罪(2):「何のため」という呪縛

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ありがとうございます。

 

昨日は創価学園こそは最も池田教が徹底されている所だということをお話しました。かくいう池田大作氏自身の方も、「嫉妬深い日本を去りたいが、私には学園生がいるから日本に留まろう」と述べており、学園生を深く愛しています。

 

幾度となく学園生にメッセージを送っている池田氏が、常々強調しているのが「何のため」という問いかけです。

この「何のため」という言葉は、創価学園の校歌(元・栄光寮歌)『草木は萌ゆる』でも繰り返し登場します。「英知をみがくは 何のため」という一節は特に有名です。甲子園に出場して流れた時は、世間では「演歌みたい笑」と言われましたが、個人的には結構好きです笑
  
創価教育の父と仰がれる牧口常三郎初代会長も「教育の目的は子供の幸福である」と訴えている通り、創価教育では何事も目的意識を強く持つことが大事だとされています。

 

子供達を「少国民」と位置付け、戦争のための教育を施した軍国主義教育への怒りがあるというのは分かります。「人々の幸福と世界の平和のために学ぼう」ということです。

 

また現代でも、一時期は受験戦争などというものに明け暮れ、今でも学歴至上主義の風潮が廃れていない中で、「一体何のために学んでいるのか」と問いかけたくなる気持ちも理解できます。

 

しかし、目的意識が強すぎることには弊害もあります。そこには、「ある行いは常にある目的のための手段であり、その目的に合致しない行いには価値がない」という極端な発想に行き着く危険性があるからです。

この発想には、「その行為自体を楽しむ」という点が抜け落ちています。

それは結果として「役に立たない」事は切り捨てる風潮を助長していきます。

 

数年前に映画化された『少年H』(水谷豊主演)では、絵が大好きな主人公を偶然通りがかった青年将校が見つけ罵倒するシーンがあります。
将校は言います。「絵なんか描いて戦争の何の役に立つのか」、と。

少年は絵が純粋に好きだから描いているだけです。

 

目的意識が強すぎると、例えば学問においては、「真理の探究」という本来の営みは軽視され、試験や資格に必要な知識ばかりを重視するようになります。

試験や資格は「社会に貢献する人材になるため」に必要な事なのです。もっと創価流な言い方をすれば「創立者にお応えするため」です。「自分に期待してくれる人に応えたい」というのは純粋で美しく見えますよね。ところが、それがいつしか、その大目的のために自分たちが「名聞名利」として戒めてきた「世俗的な権威」を誰よりも追求するようになるのです。

 

聖教新聞では「□□□コンクール第1位」「司法試験合格者○○○○人!」「経済学部検定試験優勝!」といった創価学園創価大学の実績が大々的に報じられます。

 

「あれ、これって他の学校と何が違うん?独自性って何?」とツッコミたくなりますよね。

 

さあ、こういう強烈な目的意識を持つ人々が創価学会の指導層にも増えてくるとどうなるでしょうか。

 

折伏も新聞購読も財務も選挙も、全ては「池田先生にお応えするため」という、誰にも口答えすることを許さないような「大目的」に集約されていきます。学園生の例でもそうですが、「人々の幸福のため、世界の平和のため」よりも「池田先生のため」の方がウェイトが大きいのです。本人たちは無意識にそうなっているので、指摘しても否定するでしょうが、聞いている側としてはどうしてもそういう印象になります。

 

以前は「学会活動が楽しい」という声はよく聞きましたが、今は「先生に完勝のご報告を!」という打ち出しばかりです。完全に成果主義ですね。人は楽しくないと本当の力なんて出せないものです。しかし今は皆「苦しい、苦しい、けど広布のため苦しく戦ってる自分が尊い」というマゾヒズムに浸っています。

 

こういう「真面目」な人たちは、他の人が「好き」な事をやっているのを見るとすぐに批判したがります。「それが広宣流布の何の役に立つのか」「選挙の票につながるのか」。これが「合目的性」の追求というものです。「何のため」という発想しか持てない人々は「遊び」という概念を理解しません。「遊び」はそれ自体が目的なんですが、「真面目」な人たちからは目的と外れた「無駄」と映るのです。

 

社会全体においても「合目的性」ということを強調しすぎると、とても生き辛い世の中になってきます。日本の教育にしたって国際経済競争の役に立つ「グローバル人材」の育成とやらに奔走していますね。ビジネスのツールとして英語とITばかりがもてはやされ、「文学部を廃止せよ」なんて破廉恥な政策を打ち出す動きもありましたね。

 

「役に立つ」ことだけをやろうという風潮は文明社会の衰退をもたらします。社会に画期的な貢献を為すような発見・発明は、往々にして純粋な探究心の産物であることが多い。これは多くの科学史家も認めるところですね。

 

話を創価に戻しますが、「池田先生のお役に」というお題目は「何のため」という目的意識と強くリンクしています。

 

もちろんモチベーションがあった方がやる気がでるのは分かりますが、何をやるにしても「大義」がそんなに必要でしょうか。いちいち大義というものがなければ行動が起こせない人に、活力があるなどと言えるでしょうか。

 

現代社会にも創価の世界にも「活力がない」のは、「何のため」という合目的性の呪縛を離れた「遊び」の精神を失ってしまったからではないでしょうか。ドイツの哲学者ニーチェは、「人類の唯一の原罪は楽しまなかったことだ」と言いましたが、創価学会が重んじる法華経にも「衆生所遊楽」とあります。

 

現代社会の病的な風潮を最も体現し、美化してしまっているのが、今の「創価教育」かもしれません。