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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

創価学会の「言語空間」(2): 「言葉の貧困」は「精神の貧困」

こんにちは(*・ω・)ノ

とうとうブログアクセス1000超えました。

本当にありがとうございます!

 

さて、創価学会についてネットでしか自由な言論できないって何でしょうね?

文芸評論家の岡庭昇氏は「民主的じゃない日本で、庶民が胸を張って生きていけるようになる」と絶賛してました。

今では「自由がない組織で、本音が言えない会員は肩身狭く生きている」のが現状です。

もちろん学会の会合以外で直接会って自由に語れる方々もいますが、そんなのはごくわずかです。

 

最近は組織も査問とか除名とか悪評流すとか、色々手段を選ばなくなってきていると言われていますが、そもそも自由な「言論」の前に、自由な「思考」ができていません。

 

この思考を縛る代表的なものが「言語」だと思います。

 

例えば、何かおかしいなと思っても、それを口に出して誰かに批判される以前に、「愚痴だ」と自分に言い聞かしてしまうのです。

 

「愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く」という有名な一節もありますね。

 

個人の人生において、ポジティブに生きていきましょうというのは分からないでもありません。

でも、本当に悩んでいて苦しくてしょうがない時でも吐き出せないとなると、余計息苦しくありません?むしろそういう声を受け止めてくれるのが友人じゃないんですかね?

弱音だって吐きたくなるのが人間ですよ。

「ありのままでいい」って言いますけど、「ありのままの自分」を抑えて無理してるのが実状だと思います。

 

もっと悪質なのは、「組織」の問題を「個人」の愚痴にすり替える事です。

これによって「疑いを起こしても言えない」人間から、「疑いすら起こさない」人間になっていくわけですね。

 

さらに、学会の会合では、幹部が話をする際の決まり文句として、「お元気な池田先生・奥様に見守られて」というフレーズもよく使われます。

なんだか「お天道様」とかキリスト教の神様みたいな言い方ですよね。自分たちの行動を「誰が見ていなくても、ご本尊様、大聖人も見て下さっている」。本当に「お天道様」に置き換えても変わんないですね。

そんな霊魂みたいな存在を言下に否定したのは戸田氏ではありませんでしたか?

神秘的なもので人々を惑わすのを諌めたのがゴータマさんではありませんでしたか?

 

これもさっきの「愚痴」と同じで、何か疑念でも抱こうものなら「池田先生が見ている、大聖人が見ている、御本尊様が見ている」と。

なんか「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」というセリフを思い出しますね。

ジョージ・オーウェルが書いた『一九八四年』という、全体主義的管理社会を描いたあの小説です。

 

また、池田氏との師弟関係を意識した表現は他にもたくさんありますが、最近イラっとくるのが「先生と呼吸を合わせる」という表現です。要するに「隊列を乱すな」「勝手な事するな」という事ですよ。

 

聖教新聞などでも「言葉の力」という事を強調しますが、彼らが思っているような、「コミュニケーションのツール」としての言語、もっと露骨に言えば「他者をコントロールするツール」としての言語には違和感を禁じ得ません。

 

アメリカの言語学ノーム・チョムスキーは面白いことを言っています。

言語はコミュニケーションのためのツールではない、と。

言語は「自分と対話する」ためにある、と。

要するに、言語は自分の精神世界を広く、深くしていくためにあるということですね。

「自分を深めよう」としないでいくら「対話」「対話」といったって、月並みなことしか言えないし、「題目だよ!」「師弟だよ!」「負けるな!」といった定型句しか言えなくなってくる。

 

そろそろ池田氏の「その宗教が人間を賢くするのか、愚かにするのか」という総括を、自分たちの組織に下す時が来ていると感じています。

 

ではでは♪ (・Д・)ノ