千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

「主体的に読む」ということー解釈する勇気

こんにちは(´・Д・)」

どうも天気が不安定ですねー。

夜はまだ寒いのでコタツ使い続けてます。_(:3」z)_

 

昨日も触れたことですが、法華経といえど、人間が書いたものであって、完全無欠というわけにはいきません。

当たり前のことなんですが、信仰する立場になると、素朴な疑問も「不信心」と捉えてしまうことがよくあります。

こと創価学会の信仰においては、「師の仰せのままに」「御書根本に」ということが強調されますから、どうしても冷静にテキストを読むということが難しくなっています。

法華経に対しても、「釈迦が最後に説いた教え」、つまり釈迦の直説として捉えている会員がほとんどです。

 

そもそも大乗仏典自体が釈迦の直説でないという「大乗非仏説」を学会で知る人は、一部の教学に詳しい方々に限られると思います。

もちろん、非仏説といっても、釈迦の教えの捉え直しを図ったのが大乗仏教ですし、数え切れない人々に影響を与えてきたわけですから、「新しい仏教」として肯定することは可能です。

この点に関しては、私がいつもお世話になっている『気楽に語ろう☆創価学会非活のブログ☆』様の記事に詳しいので、紹介させていただきます。

「大乗非仏説と大乗仏教運動について」

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/11/06/113219

 

私は大乗仏教権威主義化した仏教ルネサンス、革新運動として捉えておりますので、大乗非仏説を支持するわけではありませんが、やはり釈迦が直接説いたものではないという認識は必要であると思います。

そうでないと、昨日紹介したような、法華経に説かれる「現世利益」的発想が、教団の論理の産物であるという点を受け入れられなくなってしまいます。

 

また、多くの法華経の研究者が認める点の一つに、法華経には後世に加筆された箇所が見られるという事実があります。

代表的なのは提婆達多品第十二です。

根拠としてはまず話の流れがここに来て唐突な展開になっていることが挙げられます。

それまで釈迦滅後の弘教を誰が担うかという話をしていながら、いきなり提婆達多と龍女の成仏の話が出てきます。

また、文献学的な観点でも、現存する原点や翻訳で食い違いが指摘されています。

例えば、ケルン・南条本(サンスクリット原典)や竺法護訳では、提婆達多品に当たる部分が見宝塔品第十一の後半に収録されています。

一方、鳩摩羅什訳はどうかというと、当初は含まれていなく、後に追加されていることが分かっています。

また、サンスクリットの写本においても、提婆達多品に該当する箇所が見当たらないものがあります。

以上のことから、提婆達多品は後世の追加であると考えられています。

橋爪大三郎・植木雅敏『ほんとうの法華経ちくま新書、2015年、251頁)

 

他にも、法華経の全体の主張から見て違和感を感じざるを得ない箇所があります。

例えば、安楽行品第十四では、「法華経の戒律」ともとれる記述があります。

ここでは「四つの在り方(四方)」なる教えが展開され、その一つ目に菩薩の「善い行ない(行処)」と「適切な交際範囲(親近処)」の二つが挙げられています。

特に後者の「適切な交際範囲」では、「近づいて親しく交わってはならない人々」を規定し、国王、王子、大臣といった権力者、そしてチャンダーラ(旃陀羅)、肉屋、漁師、屠殺者といった人々を挙げています。

これは、修行者の堕落を防ぐ意味合いがあるという解釈もありますが、権力者ならまだしも、被差別民である旃陀羅をも避けるべきだというのは、法華経の平等の精神からいって違和感を禁じ得ません。

事実、中国の天台大師智顗や嘉祥大師吉蔵、日本の日蓮は、この安楽行品に対して、やや擁護するような形で解釈しています。

中には、「女性のために法を説き示す時は、その家に一人で入るべきではないし、またニヤニヤと笑うようなことがあってもならない」といった非常に具体的な指示も書かれています。

提婆達多品で、龍女がわざわざ男の姿に変化して(変成男子)成仏してみせたという箇所もそうですが、法華経にはその革新的な内容故、一般社会からの非難を意識していると思われる箇所が散見されます。

安楽行品が修行の律を強調しているのも、世間体に気を遣っている教団の論理というものが背後にあるとされています。

(前掲書、272-278頁要旨)

 

以上のような点から、「諸経の王」などと言われる法華経といえど、後世の追加や矛盾する論調など、違和感を感じる面があることが分かります。

日蓮もそういった違和感を感じながら、法華経の内容であってもきちんと取捨選択し、エッセンスを自分なりに解釈しようと試みています。

ましてや現代においては、法華経成立の時代とは少なくとも2000年近くの隔たりがあるわけで、そうした主体的な読み方をしていかないと、却って法華経の価値を貶めてしまうのではないでしょうか。

一人一人の実存をかけた勇気ある解釈が必要であると感じています。