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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

「大衆の反逆」: 閉鎖性、支配欲、そして憎悪。

ごぶさたしてます_φ( ̄ー ̄ )

プライベートで忙しくしておりました。

それにしても春らしくなったと思った途端、暖かいどころか暑くなってきましたね。

 

昨日はツイッターで功徳罰論のおかしさについて述べたところ、ある創価学会員の方から論争をふっかけられました。

https://mobile.twitter.com/yurukatsu21/status/853609422614020097

途中までは冷静に話ができる方のようですが、最後までご自身の考えでお答えにならずに、「牧口先生の価値論を学ばれたらいい」と、相手の勉強不足で結論づけようとされています。

説得力が全くありません。

それを指摘しても「悩乱」「狂っている」「邪説」「邪魔」「言葉遊び」と相手を罵倒して否定することしかできない。

で、この方の根本にあるのはやはり「師弟不二」論なんですね。

説得する気はもともとないのでしょう。

ご自身が解釈する「師匠の指導」に依らなければ、現実を認識できない。

そしてそれに当てはまらない言説は全否定し駆逐してしまえばいい。

創価の名をカタるな」と仰いますが、この方の言動こそ、私が当ブログで一番最初に申し上げた師弟不二」というイデオロギーの影響を表しています。

 

20世紀を代表するスペインの哲学者オルテガは、「自分よりすぐれた審判をいっさい認めない閉鎖的な人間」を「大衆」と名付けています(『大衆の反逆』白水社、1985年、35頁)。上記の方にはこの「大衆」の特徴がよく表れています。「世界一の哲学」を説く割には驚くほど「閉鎖的」です。そして言葉遣いも上から目線です。

 

オルテガのいう「大衆」とは、エリート主義的な意味ではなく、ある精神的傾向の事を指しています。

その一つがイデオロギーを振りかざすデマゴギーです。

彼は言います。

デマゴギーの本質は彼の精神のなかにある。つまり、自分があやつる思想に対するその無責任な態度にあるのだが、その思想とて彼自身の創造になるものではなく、真の創造者からの受け売りなのである。(前掲書、38頁)

つまり、自分で思想を吟味する事はなく、紋切り型の言葉で相手に押し付けようとするのですね。極めて無責任です。

 

インドの詩人タゴールは、釈迦のドグマを徹底して排除する姿勢を高く評価しています。

「師匠の指導」を振りかざす言説は、「師匠の権威」を借りて自己の正当化を図ろうとする振る舞いであり、「人間主義」とは対極の「権威主義」的発想でありドグマなのです。

 

更に有名なオルテガの洞察を紹介します。長い引用で恐縮ですがお付き合い下さい。

サンディカリズムファシズムという見せかけのもとに、ヨーロッパにおいては初めて、相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えている人間のタイプがあらわれたのだ。(中略)平均人は自分のなかに「思想」を見いだすが、思想を形成する力には欠けている。(中略) 彼らの「思想」なるものは実際には思想ではなく、音楽つき恋愛詩のように、言葉をまとった欲望にほかならないのである。(前掲書、118-119頁)

説得しようという気概もなく、相手に自分の主張を押し付ける人々に本当の思想は存在しません。「言葉をまとった欲望」とは、相手を自分のイデオロギーのもとに屈服させ、自己の正当化を図ろうとする「支配欲」と「承認欲求」を意味します。

また、大衆とは「大衆でない者を徹底的に憎んでいる」のであり(前掲書、122頁)、彼らの屈折した正義感は憎悪と表裏一体なのです。

 

文明とは、何よりもまず共存への意志である。人は他人を考慮しない度合いに応じて未開であり、野蛮である。(前掲書、121頁)

「戦争反対」を主張していても、己が正義に固執するあまり、他者を悪魔化して排除しようとする、皮肉にもその閉鎖性こそが戦争を引き起こすのです。

以前の私も独善的な正義に固執するあまり、相手を傷つけたことがあるからよく分かります。

 

私が「功徳罰論」に疑義を呈したのは、一つには、信仰の本質が功徳が罰かで語られているために、自己を真摯に見つめる「観心」の姿勢が、今ほど欠落している時はないと感じているからです。

自己に対する内省的思索と、思想のルーツの冷静な検証をしていかない限り、いくら「〇〇反対!」といって旗を振っていても、本質的な変革など望むべくもないでしょう。