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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

「思想の下男根性」: 憎悪の果てに未来はあるか?

いつもご愛読いただきありがとうございます。

 

最近はツイッターで色んな方々と意見交換させていただいていますが、創価学会には、「思想」というものが簡単に持てるという発想があるのではないかと感じています。

信仰」と言った時には、どんな人でも祈る事はできますが、「思想」と言った時には、自分でよく考え、深めていかない限り、ただの借り物のままです。

そうしないと、借り物の教えは教条的なイデオロギーになりがちで、いざ何かしらの問題が発生し、危機が起きても、その枠を超えて現実を認識し、対応していくことができないのです。

 

昨日紹介した大乗仏教勃興期の時代背景はまさにそうですね。

支援者が経済的に困窮していく中で、いつまでも出家主義にこだわっていては、サンガ自体がもたなかったに違いありません。

大乗仏教前の部派仏教時代にしても、教条的に破和合僧の教義を振りかざしていては、かえって教団の内ゲバが激化してしまうという現実がありました。

 

こうした点から考えても、危機の時代にあって、仏法思想の捉え直しこそ仏法の生命線です。私が創価学会の問題を認識しながらも、「創価」という言葉はやはり大事だと思うのは、時代に即して新たな価値を創造していこうという仏法の気概を感じるからです。

その捉え直しを図ろうと研鑽している人々を、「我見」と蔑み、「創価の名をカタるな」と否定している方々こそ、創価」の意味を自分で考えたことがあるのか、と私は問いたい。

 

北朝鮮に不安を感じる方々も逆に安倍政権に反感を抱く方々も、思想の検証をする人々に対して、「今そんなことをやっている場合か!」とおっしゃいますが、ハッキリ申し上げてこちらのセリフです。

創価学会の打ち出しに煽られて「反逆者」や共産党を仏敵として糾弾している方々。逆に反発して執行部や公明党を師敵対として非難している方々。彼らの方こそ、憎悪にかられてイデオロギーを振り回している場合なのでしょうか?

 

ロシアの作家ドストエフスキーは、イデオロギーに翻弄される人々の精神性を見抜いていました。

無神論社会主義が流行していた時代を描いた小説『悪霊』の中で、彼は登場人物にこう語らせています。

無神論を喧伝する人々は)紙でできた人間なんです。何もかも思想の下男根性のせいですよ。(中略)憎悪もあるんだな。(中略)もしロシアが何かこうふいに改革されて、まあ、あの連中の方式でもいいけれど、何かこうふいに途方もなく豊かで幸福な国になったとしたら、真っ先におそろしく不幸になるのはあの連中でしょうね。そうなったら、あの連中、憎悪の対象も、唾を吐きかける相手も、嘲弄する相手もいなくなるんだから!あの連中にあるのは、ロシアに対する動物的な、際限のない憎悪、体質にまでなってしまった憎悪ですよ……(新潮文庫、2006年、261頁)

かなり長い引用で大変恐縮ですが、「思想の下男根性」とは、思想を自分で消化する事もせず、憎悪の対象を見つけては攻撃し、溜飲を下げるために利用している精神性を指しています。

つまり思想の捉え直しに関しては極めて保守的な人々が叫ぶ「改革」は、自分たちはちゃんと戦っていたというアリバイ作りに過ぎないのです。

フランス革命に批判的だったゲーテも、改革者気取りを茶化した福沢諭吉も、真の思想家たちは皆こういう人々の正体を喝破していました。

 

『悪霊』のもう一人の登場人物もこう言います。

おまえらはまず真っ先にギロチンをかつぎ出してきて有頂天になっているが、それは頭をはねるのがいたばん簡単で、思想をもつのは何より困難だという、それだけの理由からじゃないか!オマエラハ・ナマケモノダ!オマエラノ・ハタジルシハ  ー ボロキレダ、ムリョクダ!(前掲書、409頁)

現執行部を退陣させ、公明党と手を切って、その後どうするつもりでしょうか?

憎悪と怒りにまかせて追い出しても、残ったのが新しいビジョンもなく怒った人たちだけでは、何も生み出せないでしょう。

思想的な問題自体を放置したままでは、また似たような状況を繰り返すだけです。

 

本当の危機とは、そんな「悪人」が現れたことではありません。

「執行部退陣!」「公明と手を切る!」なんてそんな単純な解決策誰だって考えつきますよ。

「悪人退治」とやらをすれば解決する問題なら、大した事はありません。

危機は英語でcrisis基準を意味するcriteriaと語源は同じです。

要するに、本当の危機とは、自分たちが信じてきた価値基準の正当性が問われている時です。

だからこそ、思想のルーツにまで遡って検証、思索し、波乱の時代にどう新たな価値基準を生み出していくのかを考えていく事が必要なのではないでしょうか。