千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

釈迦の過去世をめぐる思索:成仏、誓願、そして授記

ブログを開設して早1ヶ月が経ち、ブログアクセスも4000を超えました。

創価学会公明党に関する、しかもあまりセンセーショナルでない笑、思想的な問題点の指摘を中心に書き連ねているマイナー中のマイナー笑な内容にも関わらず、恐縮です。

いつもご愛読、コメント、シェア等、ご支援いただき、心から感謝申し上げます。

創価学会公明党に内部から批判の声があがっても、信濃町本部や幹部批判、公明党批判といった体制批判に留まり、思想的な総括・反省が抜け落ちている。

これが私の問題意識ですが、同じ様に感じてる方々も少なからずいらっしゃる事を、ブログやツイッターを通して知ることができました。

今後ともご教示いただければと思います。

よろしくお願いしますm(._.)m

 

さて、最近は原始仏典、大乗仏教法華経日蓮遺文等々、それぞれの時代のテキストや資料を同時に紐解きながら検証しています。

創価学会内では知り得なかった事が多く、その情報統制の中で、いかに自分の理解が偏っていたかがよく分かります。

 

 

例えば、「成仏」という言葉。

学会教学では、亡くなることではなく、「仏になること」だと教わりました。

また、一般的な仏教のイメージでいう苦行を通してではなく、南無妙法蓮華経の唱題と題目を弘める折伏を通して、その身そのまま(即身成仏)今世で成仏できるとしています。

しかし、「即身成仏」という概念が密教から来ていることはつい最近まで知りませんでした。

日蓮が「真言亡国」として密教を批判しているため、詳しいルーツを教えないのでしょうか?

 

以前から紹介している仏教学者・佐々木閑さんの『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2017年、以下33-39頁)は大変に勉強になります。

「成仏」という言葉も、さも当たり前の様に使っていますが、上座部仏教では、修行者の目標は「ブッダ」ではなく「阿羅漢」になることでした。

同じく仏教学者の植木雅俊氏の補足を加えると、「阿羅漢」はサンスクリット語のアルハンの音写で、漢訳すると「応供(おうぐ)」(供養を受ける資格のある者)となります。

元々は「尊敬に値する人」という意味で、十号(仏の十種類の呼び名)の一つであり、仏の別称だったのですが、上座部仏教では「ブッダ」よりは断然低いレベルとされました(『人間主義者、ブッダに学ぶ インド探訪』学芸みらい社、2016年、268頁)。

逆を言えば、上座部仏教では「ブッダにはなれない」と信じられていたんですね。

 

そして、「ブッダになること」を明確に目標としたのが大乗仏教でした。

しかし、目標としたはいいものの、釈迦の生涯を記した文献を読んでも、どの様にして釈迦がブッダになったのか、その修行方法は分かりませんでした。

そこで修行者達は釈迦の「過去世(前世)」にヒントがあるのではないかと考えました。

釈迦ももともとは凡夫であり、普通の人間なのだから、輪廻を経験しているはず。

ならば、過去世に別のブッダに会っていても不思議ではない

そしてその出会いによって釈迦はブッダを目指し修行していたのではないか。

「ただの妄想じゃないか」と呆れるかもしれませんが、この様にして、輪廻の概念をもとに釈迦をブッダたらしめた要因を探っていくわけですね。

そして過去世に出会ったブッダの前で、釈迦は自身も「ブッダになること」を誓ったはずだと考えます。

これが「誓願」と呼ばれるようになるのですね。

また同時に、過去のブッダの方は「お前は将来、必ずブッダになれるだろう。頑張りなさい」と釈迦を励ましたに違いないと考えました。

これが将来ブッダになれることを保障した「授記」の概念ですね。

 

もちろん「いくらなんでも空想が過ぎるだろう」と言いたくなるのもわかりますが、大乗仏教以前に書かれた『燃燈仏授記』にも似たような表現がでてきます。釈迦の成道前に現れた燃燈仏(ディーパンカラ)が、「あなたは未来において悟りを開いてブッダになるであろう」と予言しています。

よって、「誓願・授記」という発想も、決して突拍子もない話とは言えません。

そして、釈迦が過去世において出会ったブッダは一人とは限りませんので、何度も何度も輪廻を繰り返すうちに、多くのブッダと出会い、最終的に自分がブッダになったという話にまで発展していきました。

 

余談ですが、この「誓願」という言葉も創価学会では誤用・乱用されていますね。もともとは「修行者がブッダに対し自身もブッダになることを誓うこと」だったはずが、「弟子が師匠に対し勝利を誓うこと」にされてしまっています。

祈りも「誓願の祈り」でなければ叶わないとされ、「結果」を出して「勝利のご報告」をするという、師弟論に利用されています。

創価学会勝利主義・成果主義は、こういう用語の使い方にも示されているんですね。