千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

「犀の角のようにただ独り歩め」:組織は悟りに必要なのか

ご無沙汰してます_φ( ̄ー ̄ )

 

中々毎日更新できていなくて申し訳ありません。

ツイッターは短いので気軽につぶやいてますが笑

ツイッターでは他の方々の投稿も見ていますが、最近気になっているのが、「師匠を求めぬく中に仏法がある」という見解を多くの創価学会員の方々が持っていることです。

 

仏法における「求道心」とは、悟りを求める姿勢を指すと一般には解されますが、何故か創価学会では、「師匠を求める心」に置き換えられています。

池田名誉会長の指導を読み、創価学会の活動をしていく上での指針とすること。

池田名誉会長が今何を求められているかを考え、それを実現するために行動すること。

以上の二点が、「師匠を求める心」の具体的な内容といえます。

 

ここからは、本来仏法とは一体何なのかという視点はありません。

仏法の究極の教えは南無妙法蓮華経の題目を唱え、他にも弘める修行であるとして答えを既に出してしまっています。

よって、仏法とは何かという内容面は決着がついているとして、いかに実践し弘めるかという方法論にしか関心がない、というのが創価学会のスタンスであると言えます。

 

会員の多くは、仏法とは何かということに対しては、完全に組織の見解に依存してしまっていて、自分でまず思索することに消極的であるだけでなく、「組織を離れて正しい信仰はない」と強く信じています。

 

師匠への依存と組織への依存。

今回は後者を中心に考えてみたいと思います。

 

果たして、自分で思索を深めることもせず、組織に依存することが本来の仏法のあり方と言えるのか、この点はしっかり検証していく必要があると考えます。

 

もちろん、歴史上サンガという教団が存在していた事実がある以上、組織を頭ごなしに否定する必要はありません。

ただし、釈迦の思想はあくまで修行者一人一人が「独立した個人」であることを前提としており、その上で「サンガ」という修行者の共同体が存在していました。

この事は最古の原始仏典・「スッタニパータ」において、「犀の角のようにただ独り歩め」という表現で言い表されています。(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、2007年、以下17-19頁、253-255頁参照)

 

この譬喩は「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境と生活を指しています。

犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ」という指針が示されているんですね。

独覚」という言葉でも知られるこの境地は、初期仏教の理想とされていました。

 

訳者の中村元氏によれば、インド人はもともと内向的な性格で、独り思索に励む事を楽しむ習慣があるといわれています。

このインド人の性格が、そのままインド思想の特徴にもなっているわけですね。

これを独善や自己満足と捉えるのは軽率です。「ひとり沈思して自己を反省し、人間主体の深奥に入り込み、直観的に絶対の主体を把捉しようと努める。

この姿勢は釈迦の自帰依・法帰依の思想のベースにもなっていると言ってよく、その自己の実存をかけた高度な精神の営みは、むしろ普遍性に至ろうという気迫を感じさせます。

 

更に興味深いのは、こうした独特の思惟方法が、古代インドの風土と密接不可分にある点です。

最古代の時点で、インドの農業生産は、その恵まれた自然環境と絶妙な自然サイクルのおかげで、労働力をさほど必要としない極めて容易な営みであったことがわかっています。

生産性を上げるために、多くの人々が共同する必要性はほとんどなかったんですね。

他者への依存性が低い生活を営んでいたインド人にとって孤独であることは自然な状態でした。

この記録は、当時のインドを訪れたギリシア人によるものですが、「ポリス的人間」という人間観をもつ彼らにとって、インド人の孤独を楽しむ様はかなり異様であったそうです。

 

むろん原始仏典においても、他者との共同生活を否定していたわけではありません。「一人孤独に修行せよ」「静かなところに住め」という教えとともに、「善き友をもて」という教えも説かれています。

一見矛盾したことを言っているようですが、ここでいう「善い友だち」とは「世俗から離れる」ことに賛同した人々を指しています。

高い目的のために協力することは称賛されているのである。ここに仏教の集い(サンガ)の成立する思想的根拠が認められる。

 

つまり、仏法における組織は、悟りを求め、同じ志を共有した友人たちと協力し合い、支え合う意味で認められていたに過ぎなかったわけです。

「組織に属していなければ悟りが得られない」という発想はありません。

またその共同体の中における個人とは、「犀の角」のごとく、自分の確信を大事にしながら思索を深める人間であることが前提になっています。

こうした点から考えても、今日の創価学会で強調される組織論は、個々人の悟りを理想とする仏法の在り方に合致したものとは言えません。個人の独立した思考が重んじられるどころか、「我見」として戒められ、むしろ思考停止が助長される組織なら、そのような組織の必要性など皆無でしょう。