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千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

御書にない用語

こんにちは(*'ω'*)

ブログアクセス数5000まで来ました。

ありがとうございます。

 

もう5月ですね。

世間はゴールデンウィーク

創価学会は友好期間という名の選挙活動期間。

本当にご苦労様でございます(´-ω-`)

 

有意義な一週間を過ごし、福運を積んで境涯革命に挑戦されるそうです。

でもこの「福運」や「境涯」という言葉は日蓮の遺文である御書全集にないんですよね。

一体誰がどこから引っ張って来た言葉なんでしょうか。

機関紙の聖教新聞大白蓮華に目を通しながら、創価学会のホームページにある御書検索で調べて、検索結果が0件だったものを紹介します。

(私が創価学会のWEBサイトで唯一評価する機能です笑  皆さんも色々試してみて下さい↓

http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/

 

「福運」

まずこの言葉は、あらゆる指導に出てくる頻出用語です。大抵は「福運を積む」というような言い方で、信心をすると、貯金のように運気がたまっていくという話ですね。いかにも現世利益的な発想です。

 

「境涯」

これも不思議な言葉です。「境涯革命」と言う時には、経済苦や病苦を克服するという点で、福運と同じく現世利益的な言葉です。「偉大なる大境涯」と言った時には、日蓮や三代会長の「生き方」を讃える時に使いますね。

そして会員同士では「境涯が高い/低い」という言い方もあります。大抵は、苦境にあっても信心強盛な様を「境涯が高い」と言ったり、不平や不満を言う相手に対して「境涯が低い」と言ったりします。ちなみにこの「境涯が低い」という言い方は、結構人を傷つけます笑

 

「常勝」

「勝負」という言葉は出て来ますが、「勝ちまくれ!」的な勝利至上主義が日蓮にあったかは疑問です。

 

「法戦」

もはや学会においては選挙を指す隠語でしかありません。

テロリストが「聖戦」という言葉を悪用してるのと同じ次元ではないでしょうか。

ちなみにイスラム教には「聖戦」(ジハード)という言葉はあり、もちろん人殺しを正当化などすることは本来の聖戦ではありませんが。

 

「魔性」

「仏性」があるから「魔性」もあるだろうと思ったらなかった笑 

 

「愚痴」(*追記: 「愚癡」の表記で存在しました。一番下の追記を参照ください。

れっきとした仏教用語ですが、御書にはない笑

「愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く」という指導は何を根拠にしているのでしょうね?不平不満ばかり言っていてはダメだよというのは分かりますが、人間なんだから愚痴の一つや二つ言いたくなりますよ。煩悩否定は人間否定、灰身滅智の教えだったのではないですか?人間的なものまで否定する人間主義とはいかに?

 

「奥底」(おうてい)

よく「奥底の信心」とか「生命の奥底」「奥底で拝する」なんて言い方がされますね。これは解説するというか意味不明な言葉です。「奥底でわかってないから退転した」という言い方もされますが、そんなこと言い出したら、どんなご都合主義的な解釈も、「奥底」で理解してない自分が悪いみたいになりませんかね?

 

「宿命転換」

ない笑  「あなたの命にある宿命なのよ。宿命は変えられるわ!」いきなりこれ言われたら一般の方々はドン引きですよね( ̄∀ ̄)

 

「己心の魔」

己心の法、妙法、仏、一念三千などはあっても「己心の魔」に類するものはありませんでした。何か疑いや批判をもつと、「己心の魔に負けてる」なんて言われますね。組織の問題を個人の問題にすり替え、自己責任のように言うのはいかがなものでしょうか。

 

師弟不二

まぁこれは調べなくても笑なんですが、この言葉ほど弊害をもたらしている言葉はないんじゃないでしょうか。志を共有するとかならまだしも、池田名誉会長の指導を教条的に振りかざす人々が増えてしまいました。「師弟相違せば」という表現は確かにありますが、目的を同じくするのか、意見まで同じくしなければいけないのか、そこは冷静な議論が必要でしょう。

 

謗法払い

まぁこれは今の組織では聞かないですね笑

でもこの言葉をもとに長い事、折伏相手の所持していた神棚や仏像を捨てさせたりしてましたよね。「邪宗の害毒」なんて言葉も御書にありませんが、まるで「ばい菌扱い」笑  「八風」にも侵されない賢人が何故恐れる必要があるんですかね?そんなに気になるなら公明党に十字路を廃止するよう言ったらどうでしょうか?

 

「半眼半口」

あーもうここまで来るとオカルトですわな笑

亡くなる際に眼と口が半開きの状態になっていることが、成仏の証なのだそうですが、別に信心してなくても似たような表現は拝見しますし、最近は化粧もしっかりしてるから良く見えるんですよね笑  逆に口がしっかり開いちゃってると一生懸命半口にしようと手で押さえる始末 笑  ←実話です。別に安らかな表情ならいいじゃないですか。

 

もちろん御書に書いてなければ仏法じゃないなどと言うつもりはありません。

「人間革命 」だって「成仏」を現代的な言葉で捉え直そうとしたわけですよね。(初出は東大総長の南原繁氏ですが、それはおいといても笑)

ただ、上記に挙げたような言葉が、一体何を根拠に、法華経日蓮の教えとどう関係していて、そしてそれらをどのように現代に展開しようとしているのか。こうした点があまりにも曖昧にされたまま、濫用されていることは問題視すべきだと考えます。

 

「福運」という言葉に現世利益的発想が垣間見えるように、言葉一つ一つが思想を体現しています。

その言葉に秘められたものを検証し、それが果たして仏法と言えるのか、また現代に有効なものと言えるのかをしっかりと見定めていく必要があるのではないでしょうか。

そうしないとこういう言葉に惑わされて思考停止に陥ってしまう危険性があります。

もし皆さんからも疑問に思う用語があれば、コメントやツイッターなどで教えて下さい。

 

*追記詳細

ツイッターより「愚痴」は『聖人御難事』にあると御指摘がありました。確認したところ漢字が「愚痴」ではなく「愚癡」でした。ネット検索で調べる場合は注意が必要ですね。

以後、表記の違いに注意を心がけます。

 

また、聖人御難事においては熱原の信徒を励ます意味での文脈ですね。やはりこれも現在の学会での使われ方とは違和感がありますね。

 

ともあれ、御指摘感謝です。

もしお気付きの点等ございましたら、コメントやツイッターでお知らせいただければ幸いです。