千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

富永仲基と「加上の説」

大変ご無沙汰しております。

三ヶ月ぶりのブログ更新です。

ツイッターはちょこちょこできるからいいですね笑

 

ともあれ更新をお待ちいただいた方々には申し訳ない気持ちです。

 

さて、最近の私の関心は原始仏教上座部仏教大乗仏教法華経日蓮、そして現在の創価学会に至る「流れ」ないし「系譜」を客観的かつより明確に捉えていくことにあります。

 

未だに創価学会では、「法華経こそは、釈尊が説いた最高の教えである」との天台と日蓮の解釈を引きずっており、客観的に文献を検証するということができないでいます。できないというよりそういう意欲自体がありません。

 

今の組織では9月の「教学試験」に向けて動いていますが、この教学試験なるものには大きな弊害があると感じます。一応釈尊の生涯とか、法華経の中身とかについても触れていますが、概略にもほどがあり、肝心なところは端折られている現状です。海外での試験も聖教新聞で報道され、盛んに教学運動をやっている印象を受けますが、問題は内容でしょう。ある面だけを見せて、他の面を見せない、一種の手品のようなやり方です。

 

もし本当に仏法のことを学ぼうと思ったら、真実の仏法を奉じると主張する創価学会の書籍よりも、一般の書籍を読まなければ何も分からない。実際様々な文献を読めば読むほど目から鱗です。

 

おかげで法華経もより客観的に読むことができるようになりました。もちろん、法華経を全否定するわけではありませんが、他の経典と同じく、「後世の産物」として、作者達の意図に着目する視点が大事であると考えます。

 

特に検証する側の姿勢として参考になる人物が富永仲基です。この江戸時代の学者は、日蓮の如く数多の経典を研究した大学者で、経典の成立について「加上の説」を唱えました。

 

これは、「すべての思想や宗教は前にあったものを超えようとして、それに上乗せしながら作られていった」という考え方です。これをもとに展開されたのがいわゆる「大乗非仏説論」(大乗仏教はお釈迦様が自ら説いたものではなく後世の産物であるという説)です。もちろん日本の仏教界では好意的に受け止められていないようですが、冷静かつ真摯に歴史的な文献として研究する彼の姿勢を評価する声もあります。

 

仏教学者の佐々木閑氏の説明によると、「当時は自分のイデオロギーを裏づけるために学問するという姿勢が当たり前だった」のに対し、富永は「自分の先入観や偏見にとらわれずに、現象をそのまま記述していく」スタイルを貫きました。経典を読む際も、「誰かが意図を持って書いたものをその意図にあやつられながら読むのではなく、『真実は歴史の裏に隠されている』」という視点で研究していきました。

 

信仰者の場合、ともすると「私たちは学者ではない!法華経に説かれたことは全て真実なのだ!」と冷静で客観的な検証を忌避してしまいがちです。

しかし、「行学の二道」「道理証文」を重んじる日蓮を崇敬するなら、また真理を求める求道者であるなら、犀の角ように独り歩みながら研鑽する真摯な姿勢こそ仏法者というものでしょう。

 

現に、大乗仏教を否定したと批判される富永もそうした一人であり、釈迦の教え自体はしっかりと認めています。物事に執着する我見の克服が仏法の目的であるなら、「自分の先入観や偏見にとらわれずに」ありのままに見る姿勢を貫く富永仲基のような人こそ仏法者と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。