千思万考ー創価学会ゆる活のブログ

創価学会のゆる活会員が、学会や公明党はちろんのこと、哲学や宗教、政治経済、そして時事問題など、縦横無尽に語っていきます。

マスローの警鐘:組織宗教のドグマ化は乗り越えらえるか

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私たちの社会の大多数の人びとは、あきらかに組織宗教を目して、霊的生活の独特の所在地、独特の源泉、独特の保護者、守護者、教師と考えている。組織宗教のとるいろんな方法、その教え方、その内容は、ひろく公式に、正義、純潔と徳、公正と善良などの生活へみちびく特別の道だと、また多くの人によっては唯一の道だとみとめられている。(A. H. マスロー『創造的人間ー宗教・価値・至高経験』佐藤三郎、佐藤全弘訳、誠信書房、1996年、5頁)

これは20世紀を代表するアメリカの心理学者エイブラハム・ハロルド・マスローの言葉です。(マズローとも表記される)

心理学では彼の「欲求五段階説」や「自己実現」等がよく知られていますね。

心理学者でありながら、彼の問題の関心は科学と宗教の分離、知識と価値の分離といった文明論的課題にまで広がっていました。

彼の思索は、創価学会の宗教としての在り方を検証していく上で非常に多くの示唆に富んでいると感じています。

 

創価教育学体系』の記事で、牧口氏の実証主義や科学的手法を重んじる姿勢について検証しました。それは、彼が設立した創価教育学会の会合に「実験証明座談会」という名がつけられていたように、教育のみならず宗教にも及んでいました。

今日の創価学会においても、病苦や経済苦などを信仰で乗り越えた体験を「実証」、すなわち信仰の正しさの証明としています。

しかし、これは科学的態度と称するにはあまりに現象面に固執しており、信仰と体験にどのような因果関係があるかという検証や、その信仰が依拠する聖典等の文献の信頼性や論理性の検証が蔑ろにされている感は否めません。

 

そうした学問的な検証が不十分なまま、ある結果を見て何かが証明されたと判定する発想は「功利主義」に近いものがあります。

功利主義の国・アメリカが主張する「戦争に勝った方が正義」というような論理とよく似ています。

戦争には勝ったかもしれないが、その終結を企図する大義のもと、二度の原子爆弾投下と東京大空襲で非戦闘員である民間人を大量殺戮した所業は正当化されるか。

結果のみに着目すると、こうした過程における検証が疎かになりがちです。

マスローもアメリカ社会の病理を深く憂慮した一人でした。

 

現象という結果のみに固執するのは、科学的というには不十分であるどころか、誠実さに欠けます。

だからこそ学問的な検証が、歴史解釈においても宗教の健全さの維持においても重要な役割を果たすのであり、無視してよいものではありません。

 

知識・懐疑・確証・否認といった学問的な検証、それに伴う「純化と改善の可能性」から切り離されたとき、宗教は必ずドグマに陥ることをマスローは指摘します。

そのような宗教は、その基となっている啓示は完全無欠で終局的であり、永遠なものだと主張しがちであった。そのような宗教は、真理を、それも全真理をもっていて、もはやそのうえ学ぶ必要はなく、したがって変化に抵抗したり、ただただ保守的であろうとしたり、反知性的・反科学的であったり、敬虔で忠順ならば懐疑的な知性は排除したりする。(中略)(反知性的な組織宗教における)信仰は、対象が何であろうと、それへの、疑問をもいだかない従順と、最後まで頑として退かぬ忠誠となりがちである。それは人間よりはむしろ羊をつくりがちである。それは恣意的で権威主義的なものとなる傾向がある。(同書、17-18頁)

「永遠の法」「世界一の生命哲学」「不信は悪」といった創価学会の指導性はまさにこの指摘に当てはまります。

教条主義権威主義の危険に警鐘を鳴らしたマスローが「人間主義的心理学」を探求したことも象徴的です。

この引用元となる著書『創造的人間』は、池田名誉会長も教育提言で触れていましたが、マスローが提起した組織宗教の課題を、皮肉にも学会はそのまま体現してしまってはいないでしょうか。